勝本の朝市は江戸時代の物々交換がルーツ いるかパーク
郷ノ浦ふれあい通り 郷ノ浦 塞神社
(拝観自由:無料)
この地区の氏神様です。小さな神社ですが日本書紀にも登場する猿田彦の妻である猿女君(さるめのきみ)が奉られている由緒ある神社なのです。
現地の「塞神社由来」によると、「神代の昔、天岩戸の裸踊りで知られる女神天宇受売命(あめのうずめのみこと)は、後に異形の男神猿田毘(さるたび)古神と結ばれ、猿女君(さるめのきみ)として以来一対の神となった。・・・
また、この神社に祭られているのは女神ということで良縁、安産、夫婦和合、性の病、子供の守護に霊験あらたかと言われていますが、本来 道の神であるため交通安全を祈る人も多いそうです。
【開催中の企画展】壱岐の自然展(2013年6月21日~8月25日)
本企画展では、島の土台を形成する勝本層群やその後の活発な火山活動で生まれた火山岩や火山砕屑岩、その間に挟まる砂岩・泥岩から産する化石などを展示し、壱岐島の成り立ちを明らかにします。そのほか現在島内で見られる動物の骨格や、島内で発見されたステゴドンゾウの化石、植物、景観など、さまざまな標本や写真パネルなどで紹介します。またお隣りの島、対馬の天然記念物ツシマヤマネコやツシマテンの剥製などを展示し、近くにありながらその様相は大きく異なる対馬の特徴的な自然も紹介します
壱岐まるごと 味
ジェットフェリー 壱岐芦辺 18:05~対馬・厳原(イズハラ)19:10着
「丸屋ホテル」1泊 対馬厳原町国分 0920-52-1970 郷土料理込み 10,500
第3日 対馬藩主・宗家コース 2時間 やんこも・ガイド料 3,500円 拝観料別 10:30 ~ 11:30 午前9:20に丸屋ホテルにガイ
ドの藤井敦子さまと合流。〒817-0022 長崎県対馬市厳原町国分1441
対馬観光物産協会 対馬観光ガイドの会やんこも 事務局 阿比留 美紀(あびる みき)様 やんこも」は、対馬の方言で「たくさん、何度も」の意味。(何度でも対馬に来てほしい、たくさんガイドしますよ、という熱意とおもてなしの心を表現しています)
対馬藩主・宗家
10万石の城下町厳原(いづはら)には、日本と朝鮮半島の交流の歴史が深く刻まれており、国指定の史跡が集中する格好のまち歩きコースとなっています。ガイドに導かれ、歴史の真実にふれる旅をお楽しみください。
対馬藩主・宗家コース(約2時間) 宗家
19代、初代藩主・宗義智の菩提寺である万松院、明治維新後に伯爵となった宗武志(そうたけゆき)公と李氏朝鮮の徳恵姫の結婚記念碑、宗義智の妻・小西マリア(小西行長の娘)が合祀されている厳原八幡宮(いづはらはちまんぐう)など。
宗家倭館資料 貞享四年(一六八七)から明治三年までほぼ連続して現存する。館守役を拝命した日から任期を終えて倭館を立つ日まで、船舶・人・書簡の往来や、実務的な外交折衝、貿易業務の実状、朝鮮国・中国などの外国情報、密貿易をはじめ倭館で起こった種々の出来事を広範に記録しており、倭館の実態把握の上で欠かせない資料である
朝鮮通信使
対馬・壱岐の観光客は行き逢うほとんどが韓国からの団体客のようだった、フレンドリー。昨日の壱岐よりも、本日の対馬に数がさらに多いとの感が深い。厳原の町なかに千メートル足らずの間に・入り口に列と並んだ人ごみの免税店2店に出合った。
丸屋ホテル1泊 対馬厳原国分 郷土料理
通信使の上陸地から藩主の居城までの通路の景観資産保全中
壱岐対馬デジカメ写真
2013.8.24高知新聞;ツシマヤマネコ車道事故死多発、農薬普及で餌となる昆虫やネズミ減へ環境整備・環境省国内5か所で繁殖試行誕生直後死多発中、
厳原港 13:00発(30分前に乗船) ~ 博多港 15:25 着
と旬の野菜を、季節感いっぱいの手作り料理で楽しませてくれる店。お昼の日替り弁当は大人気です。夜は、繊細な味付けの和の料理が樽に盛られ、ずらりと並びます。幸菜膳\1,050、野菜料理400円から、魚料理800円からと手軽に本格的な味わいをどうぞ。
博多駅 17:19 みずほ604 14ホーム 18:57岡山19:05 南風23号 21:44高知
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時計・コンパス・筆記用具・カメラ・帽子
ウィキペディア 宗 義智 天正7年もしくは8年に当主となる。
天正15年、隠居していた養父・義調が当主として復帰したため、義智は家督を義調に返上することとなった。これは同年に秀吉による九州征伐の始まったためで、義智は義調と共に秀吉に従ったため対馬国一国を安堵された。
このころ、秀吉から李氏朝鮮を服属させるようにとの命令を受け、義調や小西行長、島井宗室らと共に交渉に尽力する。天正16年(1588)に義調が死去するなどの悪条件もあって、交渉は思うように進まなかった。なお義調の死後、再び家督を継いで宗家の当主となった。
天正18年、朝鮮から来日した使節を服属使と称して秀吉に謁見させた。秀吉はこれを朝鮮が服属したものと受け止め、朝鮮には明の征服事業の先導が命じられることとなる。だが、この朝鮮使節は義智が本来受けていた命令とは違い、秀吉による全国統一に対する祝賀使節を送るようにと偽りの要請をして実現した使節であった。朝鮮は建国以来、明に柵封国であり、秀吉の明征服事業の先導を了承する可能性はなかった。窮した義智は朝鮮に伝えるべき明征服の先導命令を、明への道を貸すようにと偽り要請した(假途入明)。しかしこれも実現しなかった。
文禄・慶長の役と関ヶ原
朝鮮との交渉は結果的に失敗し、天正20年からの文禄の役では舅・小西行長の一番隊に属して日本軍の最先鋒として戦った。
一番隊の編成 小西行長 7,000人 宗義智 5,000人 松浦鎮信 3,000人 有馬晴信 2,000人 大村喜前 1,000人 五島純玄 700人 総計 18,700人
義智らの軍が漢城に入城する前に朝鮮国王は逃亡しており、民衆は、国王の脱出と同時に暴徒化し、景福宮などの王宮、官衙や王族の私邸を襲い、宮闕に乱入しては略奪をほしいままにし火を放っていた。特に奴隷的階層であった奴婢の身元を示す台帳を保管していた掌隷院は、身分的解放を求める人々によって襲撃されている。
諸将と漢城会議を行った後、5月11日に義智はさらに北に向かって進撃し、5月18日以降・次々と攻略。・・・。敗退し平壌城を朝鮮軍が放棄すると6月16日にはこれを接収した。ここで進撃を停止する。・・・・後に秀吉から羽柴の名字と偏諱(「吉」の字)を貰い吉智(よしとし、義智と読みは同じ)と名乗った。 朝鮮との交渉を懸命に努めて戦争を回避しようとした理由は、貿易利害のほかに対馬が朝鮮との中継地に使われることを恐れたためでもあった。なお、江戸期に入って朝鮮との和平条約を締結して宗氏の江戸幕府における地位を安泰させたものの、このときに交渉を性急にしすぎたため、次代の義成時代に宗家は滅亡の危機に立たされることにもなった。 義父の小西行長の影響を受けてキリシタンにもなっていた。洗礼名はダリオである。朝鮮の日本軍を慰問したグレゴリオ・デ・セスペデス神父は「極めて慎み深い若者で、学識があり、立派な性格の持ち主」と評している。