土佐寮おんちゃん会の勉強会 2012.1.14
高知県中小企業家同友会 相談役
前株式会社ソフテック 代表取締役社長
S43年卒寮 仙頭武英
2章 中小企業家同友会の運動 (1)同友会運動の理念、(2)同友会活動の状況
3章 SFT社の経営指針 1節 経営指針は何故必要か 2節 経営理念 3節 経営方針と戦略
3−1節 経営方針 3−2節 経営環境を知る 3−3節 経営戦略を立てる 戦略検討シート記述例
5節 SFT社に おける経営実績と反省点
(1)20年間の売上・剰余金の推移と32期大損失の原因 12P
(2)財務分析 13P
(3)2009年2月度SFT社便り 社長の10年間を点検する 14P
4章 土佐寮生活は人生の一コマ
(1)父仙頭宜清の砂土原寮での大正12年頃の日記
(2)私仙頭武英の井の頭寮での昭和40年頃の想い出と日記
@ 2005年 8月度SFT社便り 高石次郎先生とのこと
18
A 1965年大学2年生、1967年大学4年生の日記 19P
5章 人生について
20P
まず目次を見て頂くと。1章から5章まであります。
(2章)中小企業家同友会の運動は、日本経済の自主的・平和的発展を望みつつ、日本の全ての中小企業の繁栄と、そこで働く全ての人の幸福を目指すものです。それで同友会では、『1)「良い会社、良い経営者、良い経営環境」を目指すこと⇒存続発展の理念。2)「自主、民主、連帯」の精神を経営に生かすこと⇒人間尊重の理念。3)中小企業は地域や国民と共に歩むこと⇒社会貢献の理念。』と言う三つの理念でもって、日本経済の真の担い手である中小企業経営者を対社会と対社員において、彼が何をなすべきかを、私利私欲でなく公利公益の「あるべき道」へと導いています。
(3章)同友会では、会員の目的の一つとする「どんな状況に直面しても永続的に利益を出し続けれる良い会社をつくる」には、『経営指針の策定と実践』が必要だと説きます。同友会の経営指針は、「経営理念、経営戦略、経営計画」で構成されている。特に経営理念が重視され、労使見解(中小企業の労使は対立するのではなく、経営のパートナーとして協力するべき)に基づき「自社の存在意義を強く問い、社員の自主性を発揮できる21世紀型企業づくり」を目指そうと訴え、そこでの経営者の責任役割が強調される。そして理念に沿った経営方針・戦略、そして経営計画へと展開します。最後に経営実績を示す。
(4章)企業は社長の器以上にはならないと言われます。ところで、約90年前に私の父が砂土原寮で関東大地震に遭った頃の日記と、私の45年前の井の頭寮での想い出とを比較してみますと、寮行事や個人の行為においては同じ様な事が繰り返されているものだと言う思いがしました。多分今の土佐寮においても、人間として成長し器の大きさを形成する青年学生の生活は同じではないでしょうか。器には大きさの大小と質の良し悪しがあります。学生時代や「寮生活」は良い経営者の器づくりの原点にあるのではないでしょうか。
(5章)今年には68歳を迎えますが、残り少ない人生を過去の経験を生かして何らかの形で社会貢献ができればと考えるところです。 (2012.1.14仙頭武英)
2章 中小企業家同友会の運動
中小企業家同友会は、「良い会社づくり」を目指す経営者の団体です。同友会は日本経済の自主的・平和的発展を望みつつ、日本の全ての中小企業の繁栄と、そこで働く全ての人の幸福を目指して1957年に設立された会です。<事業所数の99%、従業員数の70%は中小企業>
1節. 同友会運動の理念
(1)同友会は次の三点を基本的な考え(理念)としています。
第一、「よい会社、よい経営者、よい経営環境」の三つを目的とする。
第二、「自主、民主、連帯」の精神を同友会運営、社会関係、会社運営に適用する。
第三、「国民や地域と共に歩む」中小企業を目指す。
(2)同友会は三つの目的を目指す⇒存続発展
@ よい会社:企業理念が明確で、顧客や取引先からの信頼が厚く、社員が生き甲斐を持って働き、どんな環境変化に直面しても永続して利益を出し続けれる企業。⇒経営指針
A よい経営者:経営者はいかなる困難な状況にあっても経営の維持と発展に全力を尽くす姿勢
B よい経営環境:時代の流れ、産業構造の変化、政治経済の仕組みから生じる困難な課題に対し日本経済の真の担い手としての誇りと自覚に立って経営努力が公正に報われる経営環境
(3)自主、民主、連帯の精神の適用⇒人間尊重、社員及び家族の幸福の追求
@ 同友会の運営:自主=会の入退会や行事への参加は会員の自主性に任す。
A 同友会の社会関係:
B 人間尊重の会社運営:
(4) 中小企業が国民や地域と共に歩むのは、経営基盤を国民生活と地域の中に持つからだ
@ 豊かな国民生活の実現に貢献する。企業活動は反社会的、反国民的であってはならない。
A 優れた商品やサービスを提供し、人々の暮らしを向上させ、地域経済の繁栄に尽くし、
B 地域経済振興の為に提言し行動する。
2節. 同友会活動の状況
(1)同友会の状況:同友会は全国47都道府県に支部があり4万社が加入しています。高知県
(2)同友会の内容:@経営指針を作成しフォローする会。A三大全国大会と月次支部例会(経
B経営委員会・共育研究会、異業種交流会。
C共に
3章.SFT社の経営指針
1節. 経営指針は何故必要か
(1).必要な理由と対応
○会社が黒字で存続発展すること
↓
社員の思いや行動がバラバラだったら良い結果は得られない
信頼できる会社でなければ顧客は取引をしてくれない
↓そこで
○良い会社運営を行うこと ⇒良い会社をつくる経営指針
↓それには
社長中心に幹部、社員も参加して「経営指針」を作成し経営者の決意を示す
(2).船の航行にたとえると
(3).経営者の責任役割 いかに経営環境が厳しくとも、時代の変化に対応して、経営を維持し発展させる責任がある(実際の仕事を遂行する社員の生活を保障すると共に、高い志気のもとに、社員の自発性が発揮される状態を企業内に確立すること)。
(4).良い会社とは
@ 企業の経営理念(ミッション、ビジョン)が明確で社員に浸透している。
A 顧客や取引先の信頼が厚く、地域社会への貢献ができている。
B
競合に勝てる独自性ある事業を行い、かつ強みを生かして会社が伸張している。
C
労使が事業のパートナーとして協力しあうことができ、
D 利益を永続的にだしている。良い会社づくり⇒経営指針作り→指針を浸透→現場で実践→目標フォロー→良い結果を出す
(5).経営指針の構成
@ 経営理念・・・その企業が社会に存在する意義や役割、事業目的を宣言する
A 経営方針・・・会社が向かおうとしている方向や目標、事業の領域と提供商品・サービス
B 経営計画・・・数値目標と達成の手段、方策、手順を期限(短期1年)で示す。
(6).中小企業家同友会の理想とする21世紀型企業づくり
@ 自社の存在意義をあらためて問い直すと共に、社会的使命に燃えて事業活動を行い、
A 社員の創意や自主性が十分に発揮できる社風と理念が確立され、労使が共に育ちあい、
2節. 経営理念
(1).経営理念とは
1.事業経営を行うにあたっての、経営の基本的なありかたの表明。(憲法の序文に相当)
行動理念) 目的を実現するための全社員共通の基本姿勢、行動基準を明確にする。
2.経営者の生きる姿勢の確立 同友会の理念→会社の理念→経営者の理念
2).経営理念に必要な皆が納得する三つの要素 1.科学性の追求・・経営環境の変化を客観的に把握する
(3).経営理念の役割
1.企業の「社会的存在意義」を明らかにする
2.同友会の「労使見解」に基づく経営者と従業員の共通の「人間性尊重」の土俵づくり
3.経営理念が社風となる
(4).経営理念の検討シート 図表2
2.社員への姿勢:社員の暮らしを守る。社員が人間らしく生きる。社員の豊かな人間性を育てる。
5.ミッション:企業の使命(社会に必要とされる存在意義)、経営の目的(何の為に経営するか)
6.ビジョン :経営の目標、企業の理想像 ⇒会社の独自性と経営戦略に結びつくもの
(5).経営理念を浸透さすには 1.社内外に経営理念をホームページ等で表明する。
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仙頭武英 1965(昭和40)年度大学2年生日記
[04月18日(日曜)]部屋替え。旧舎二階西側のSMさんと一緒になる。彼に何を期待するか、共産主義を学ぶのか。アルバイトに暮れる貧乏学生だと言うが、ダキな怠惰学生に見える。
[05月09日(日曜)]寺田寅彦曰く「無批判的な多読が人間の頭を空虚にする」。自分で一番読みたいと思う本をその興味が続く限り読む、そして嫌になったら途中でも構わず投げ出して、又次に読みたくなった物を読んだら好い。良き師を持つことは大切だ、寅彦は多くの師を持っていた。科学学問のみにならず文学随筆についても夏目漱石なる師から影響を受けている。
[05月22日(土曜)]土佐寮の恒例吉祥寺裸踊りをする。駅前で気勢を上ぐ、公園の池に飛び込む者もあり。酒の助けを借りなければ出来ぬ、しかし頭が痛くなるほども呑むな。
[05月28日(金曜)]土佐寮の旅行、費用千円(東京〜茅野の往復運賃は千八十円)。28日23時45分新宿発中央線、満員の夜行列車で小父さんに坊やと馬鹿にされる。29日朝茅野で下車、霧立ち込める蓼科牧場、堀辰雄の「風立ちぬ」を思い八ガ岳の麓・奥蓼科温泉で泊る。30日は、白樺湖であの水を喉に通おすべきだった。東京に夜8時に帰る。
[10月31日(日曜)]昨日の早慶戦は呑み過ぎだ。優勝行列後の新宿では誰れ彼れ関係なく振る舞い酒があった、只酒の呑み過ぎ。頭がグルグルこれは大変だ、多くの人に迷惑を掛けた。寮まで北原君に送ってもらう。遅いので彼を泊めた事で寮役員と気まずい関係になる。已むを得なかったし悪いとは思っていない、けれど無断宿泊の寮則違反で五十円払い終わりとする。
[11月26日(金曜)]歌声喫茶“ともしび”に行く。金はあと三百円も残っていない。貧乏!貧しくても好いが貧乏に取り憑かれるな。私の生活は将来も金儲けに程遠く金と無縁だろう。
仙頭武英 1967(昭和42)年度大学4年生日記
[10月15日(日曜)]丸山真男は、「現代政治の思想と行動」の「科学としての政治学」で「一体政治学者と言える人が日本に何人いるのかと言う批判に接する度に一応本能的な反感を感じる」と言っている。私もよく寮で大物がいないと言う言葉を聞くと本能的に反発するが、勉学に励みそれを打ち破るだけの学問見識と行動を持ちたい。<「日本の思想」が若者向け>
父仙頭宜清の大正12年9月関東大震災時の日記
[大正12年09月01日(土曜)] 矢張り二百十日だと充さん<従姉>が云う、大雨の中を<麻布の叔母宅から牛込区砂土原町3丁目8番地の土佐協会>寄宿舎へ帰る。部屋の掃除が済み、風呂場で汗を流している最中<午前11時58分>大地震が起きる、協会の瓦はすっかり落ちた、土煙で暗くなる、危ないこと。寄宿舎の門の方へ逃げる。後で知ったが、震源地は大島付近の海底、大火災を生じ大東京市の四分の三、主なる建物は総て焼けた。横浜はもっとひどい由<東京・横浜市74万戸の64%焼失>、関東地方は一常にひどい目に遭った。水道、電気、電話、電車等総て止まる、彼方此方に火災が起こり、殊に旋風による火竜はえらいもの、死傷十数万人と言う<両国の被服廠跡避難者4万人が焼死>。消防夫も手をつけかねて見ているので、制止もしないから市谷から九段一体を見に行く、神田方面一体は火の海。<震動は>上下動にして左右幅員フクイン八寸。焼けた方面、本所、深川、浅草、神田、京橋、日本橋、下谷等の諸区。牛込安全、全部で四十万坪を焼き、死者は東京だけで八万人位、金額被害は百億円と言われる。
[大正12年09月02日(日曜)] 昨日、鍋島候邸内に避難して寄宿舎近傍の者一緒に共同生活する。落ち落ち眠られなかった。今朝、食後直に麻布へ行く、避難民皆表情なく虚ろの眼。あてども無く人々うろついている。麹町方面は盛んに焼けつつある。赤坂溜池方面は灰となっている。叔母の宅も焼失、大抵の荷物は田中隆三氏方に運ぶ、くたびれた。田中氏宅に一泊、夜は鮮人の不逞行為ありとて騒ぐ。<土地を失った韓国農民が出稼ぎに年間10万人渡来日し都市周縁部に日雇い人足として集団居住していたが、朝鮮人には8月29日が日韓併合の屈辱日であり、又共産党が9月2日の国際青年デイを準備していたので警察が警戒中だった。それで警察・社会主義過激派の双方が「朝鮮人が暴徒化して警察署を襲撃、家屋に放火、井戸に毒薬を投入」と流言デマを流したと言われ、自警団等に朝鮮人6千人が虐殺されたと推定されている。このとき大杉栄が憲兵甘粕正彦に殺される>
[大正12年09月03日(月曜)] 昨夜あんな騒ぎの中に良く寝た。買物一寸手に入らず。焼跡へ行って叔母の殊物を拾う。雨降りて避難民を苦しめる。昼食後牛込に帰る。道行く人日本刀を持ち大抵の人金棒を持つ、人によって抜き身の槍を持ちて要所要所を固める。赤坂の真ん中で立ち小便。夜は鮮人騒ぎで三時まで番をする。
[大正12年09月04日(火曜)] 晴れて少し平安なる心地する。玄関前に談笑する位の平穏ヘイオン。何ぼか母が心配しているだろうが通知の方法がない。手紙と葉書を書いておく。午後は大抵寝る。「イワノヴェッチの死」を読む。夜二時から夜番をする。甲藤君が川越から歩いたと云って、今日びっしょり汗に濡れて帰ってくる。
仙頭宜清大正12(1923)年10〜12月日記
{大正十二年十月中の出来事}
11日 愈々学校が始まる、あんなに働いた講堂が建たぬそうだ<講堂は1926~27年に建つ>。
14日 新舎の大掃除で誤って硝子の破れを踏み込む、夜は慰労に面白く呑む。
[大正12年10月08日(月曜)] 朝大久保を引き払って寄宿舎へ帰る。中谷君が自分の部屋を占領しているので行く所がない、仕方ないから福島の部屋に同居で窮屈だ。夜、舎生が集まって避難学生収容について話す。二人一室でも我慢する事にする。
[大正12年10月20日(土曜)] 塩原へ土佐協会十四人の旅行。気になっていたと見えて何べんも眼を醒ます。五時に起きて六時に家を出る。旅行には絶好の天気だった。朝の中は少し寒い。上野駅から東北本線で七時五十分に出て十二時頃西那須野に下車して、それから電車で一時間。楠瀬君のオドケで道が賑わう。澄み切れる水、数知れぬ滝と断崖と橋、紅葉黄葉しかけた山、美である。然し自分は日光が一番良い。石渡で食事して騒ぐ、更に塩原は古町の中、会津屋の山上の別館に泊る。宿の酒について面白からざる経緯イキサツあり、更に日出水さんとビール七本、日出水さん吐く。
[大正12年10月21日(日曜)] 読書=愉快なる人生。余り昨夜呑んだもので頭が痛い。昨夜は降ったが今日はかっきりと晴れている。十一時まで自由行動があったから四五人でぶらついて源三窟を見て更に逆杉(八幡社内の岡園二十五次)を見る。又電車まで歩く可成りくたびれた。汽車が割合に空いている。月が冴える八時頃に帰り着く。黒岩が今日上京している。黒岩が八十円持ってきてくれたので福島に借りた二十円を返す。
[大正12年10月31日(水曜)] 八時過ぎまで寝る。やがて寄宿舎の武術大会がある。午前は剣道で葛目、山本、柳林を二本づつで抜く、一本も取られず。休んで白軍の主将が破られたので自分が戦う、楠瀬を二本つづけて破る、勝賀瀬に二本取られる。午後は柔道で植松主事と引分ける、自分の方が勝ち。マンモースが怒る。自分は両方共に奮闘して賞品も多い。可成り呑んだが余り酔わない。いつも二次会に行く自分が行かないで嬉しい嬉しいと云って踊った。黒岩と上田の家に行くが居らず、コーヒーを飲んで帰る。
[大正12年11月14日(水曜)] 弁論会演説「文芸と人生」の草稿を書く。黒岩くへ五六人集って来年正月七日の「よさこい祭」には芝居を復活しようと言う話しがでる。
[大正12年11月21日(水曜)] 一時間目出席しようと思っていたが、旧舎修繕のため部屋の壁落としをするからとの事で学校へ出ないで移転に時間をつぶす。三宅の部屋へ行く約束だが、何だか賑わう大広間へいってみたくて、大広間の入り口の所に陣取る。
[大正12年11月23日(金曜)] 大広間から三宅の部屋に移る。大工が屋根にトタンを葺フく音がやかましくて本を読む気にもなれない。武蔵野館へ「ゴーレム」を観にいく。
[大正12年12月04日(火曜)] 部屋の壁ができたので先ず畳を敷き、後に移転する。
[大正12年12月15日(土曜)] 自分が部屋にいるに挨拶もなくやってきた職人が黙ってさっさと古い紙を破ってがたがたやっていたが、やがて障子を張り替えて呉れた。之で修繕は大概終わったらしい。障子戸を透かして見える大銀杏の落葉がうすら寒い。
[大正12年12月17日(月曜)] 八時半に起きる。学校へ行ってみると試験の発表があった。二十日から二十二日まで三日間である。済んだら直ぐに帰ろうと思う。
[大正12年12月22日(土曜)] 五時に起きる。便所に行くとばらばらと雨がトタン屋根に落ちる。こんなに続くといぬる時分に降りやせんかなと心配していたが、案の外七時頃がくると雲間から朝日が覗く。存外降らぬかも知れぬ。これからむくって試験が済んだら今晩七時半にいぬるぜよ。一生懸命になってむくる。カーバーの試験は割合に良くできた。今度は思いの外に良い成績が取れた事を喜ぶ。九時二十五分の汽車で葛目君と帰る。八人の見送りあり、可なり混む。良く寝る。23日、醒めたり又寝たり。関ヶ原で雪が降る。十二時に神戸に着く。一人新開地でマキノの活動を観る。日本の旧劇としては大変面白かった。夜七時半に汽船が出る。明日は故郷に帰れると思うと嬉しい。
(2) 私仙頭武英の井の頭寮での昭和40年頃の想い出と日記
仙頭武英の経歴:S19生まれ、S43早大理工卒・川崎重工業就職、S54ソフテック転職〜H21役員退任
社員の皆様へ 2,005年8月度 ソフテック便り 平成17.07.25 仙頭 武英
高石次郎先生とのこと(6)
私の住んでいた武蔵野は樹木が多く散歩にもってこいの処でした。ビルの立ち並ぶ東京では、井の頭公園の春の桜と新緑、夏の木陰、秋の紅葉、冬の白雪と樹氷は気分を和ませてくれる。すぐ近くに太宰治の入水自殺した玉川上水があった。私も「寂しい者ほどよく微笑む」と云う彼のニヒリズム「人間失格」に憧れた。彼の意に反しトカトントン思想が私に仕向けたものは、常に何かに追われ、この追われる気持ちがなくなるのは、自分のやるべき事が全てなされた時、それはないだろうが、それまでは怠惰な自分を鞭打ち進歩さすものであった。
高石次郎先生とのこと(7)
土佐育英協会東京学生寮(土佐寮)で私は大学の4年間<1964〜1968年>を過ごした。兄嫁から毎月5千円もらっていたが、なんと言っても3千円の寮費(予備校時代の下宿代は9,500円)で2食付住処だから我々貧乏学生には有難かった。学生食堂のカレーが50円、定食75円だったから食事代を払って宿泊代は只という計算になる。寮の近くに散髪屋があり寮生は競って只の散髪をしてもらった、ある時は長い髪、ある時は短い髪と若い理容師の練習代となって。先輩に教科書を譲ってもらってその半額を請求され逃げ回ったことを思い出す。なにせ教科書代は高かった。吉祥寺から高田馬場までの交通定期券は 610円で、期限が切れて持ち金130円では定期券は買えない。2冊1,750円の教科書を古本屋に売ると750円、折角お金が手に入ったのだからと焼き鳥屋で一杯やると150円、岩波文庫50円、ノートで40円と消える。私は精々50冊位しか読んでいないが、「岩波文庫 100冊の本」をどれ程読んでいるかが我々学生の読書量を計るバロメーターであった。返還に10年以上かかったが<土佐育英協会>奨学金はありがたかった、毎月3千円もらっても友達に返せば即半分以下になった。途中から倍の6千円になったので映画・書籍代に1,800円程使った(物価は今の8~10分の1程か)。寮監の山脇元陸軍大将は温和な方だった。寮会が年に数回行われ役員や部屋割りを決め寮監講話、その後は湯のみ茶碗で飲み会、必ず明くる日は二日酔いした。寮は2人1部屋で寮生の持ち物は蒲団、学生服、本、たまにラジオ。先輩、後輩の関係にはうるさく、部屋は下級生の時は上級生と、三年生から卒業までは後に県庁に勤めた松村氏と一緒になった、それ以来の長い付き合いだ。ダンスパーテイ、女子大合同ハイキング、ソフト球技、春の花見、秋の旅行、街での裸踊りが寮の行事だった。上級生になって県出身の国会議員<浜田幸雄さん>や高級官僚<小笠原喜朗さん>の家に呼ばれご馳走になりました。今、高知に土佐寮出身者の親睦団体「おんちゃん会」がある、その会員である竜馬学園の佐竹理事長、高知新聞社の藤戸常務、サンシャイン瀬戸の川崎社長等にはお世話になっています。