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おんちゃん会 (fc2、3-7.htm=おんちゃん会設立前後のメモの続き)

 仮称「東京おんちゃん会」開催のご案内 去る10月12日高知にて、旧砂土原町時代から現在に至る土佐寮OB約130名が県知事他多数の来賓を向かえ一堂に会し、正式に「おんちゃん会」として認知され、発足しました。・・東京おんちゃん会を先要領にて開催いたしたく・・発起人代表
野町淳、世話役松島賢亮・福島昭雄・公家太一・小路英明・矢野忠。
昭和52年11月12日(土)15時30分〜17時打ち合わせ会、17時より懇談会、「きた井」新宿区西大久保1丁目、6千円、議題の1に中須の小母さんに対する慰労金贈呈の案件として、一口1万円を目標として募金・・。<きた井は、花園神社の東側の大通り・明治通りを北へ、交差点を左(西)へ>

高知は11月(日付不詳)に、協力をお願い申し上げるとともにご案内として。有志発起人 (高知)枦原宏輔・冨田哲郎・真城敏之、(大阪)藤崎正行・船本三八郎、(東京)の町淳・福島昭雄・公家太一・小路英明・矢野忠・高橋浩で、募金目標額100万円、一口5千円、二口以上をお願いし、振込み送金先を三菱銀行神田支店普「おんちゃん会」福島あて、奉加帳に住所金額記入・印刷印章など活動に伴う費用は募金額より支出する断り書きを添え開始。申込み締め切りは昭和52年12月20日。
(2月末、東京からの電話では、56名で80万円、東京42名54万・大阪8名8万・高知6名6.5万+124名12.4万円)

感謝状(案) 中須七女子殿 あなたは多年寮母として職務に精励し育英事業に尽くされました その功績はまことに大であります よってここに記念品を贈り感謝の意を表します 昭和53年4月1日 財団法人土佐育英協会 理事長 中内 力  <記念品は時計>

東京支部がスタートしたことは、昭和52年11月13日付け高知新聞に報道された 土佐寮おんちゃん会(谷村健助会長)の東京支部が12日・・35人が出席。昭和27年から51年までまで学生たちの世話にあたった元同寮職員、中須七女子さん(58)世田谷区代田5丁目2−20、大庭方・・・。

昭和53年度は、8月12日(土)午後6時30分 三翠園大広間 ¥5,000(学生は¥3,500)
53年12月28日 旭軒(本町2丁目)で、寮生と、この1〜2年間に卒業した寮生OBとの忘年会があり、40人程度さんかしたとのこと。会より清酒を届けました。
昭和54年1月12日(金)高知新聞 FRIENDふれあい 団体生活のよさを知りますよ。「土佐寮」の総務 石川温基さん 写真入で大きく掲載された

54年2月23日(金)18時〜21時 おんちゃん会・現役寮生交流会 公園通り(高新西側)末広、30人程度、3,000円

昭和54年度 土佐寮よさこい実行委員会会計報告が実行委員長の国沢正典さんから、8月14日落手。繰越3.5万・自治費0.5万・育英協会1万・寮生から寄付9.4万・OBから寄付32.7万・会場その他から寄付1.7万円、計48.8万円。ハッピ3,500円を70着・クリーニング2.5万・アンプ借用1.2万・治療費二人0.5万弱、支出して。残高2.26万円。

昭和54年10月20日(土)魚竹本店で6時から会費5千円(学生3.5千円)祝電2通・今西五郎寮監大阪支部(実は田村恒幸のおんちゃん)、知事・文教理事長・協会事務局長・小笠原きろう氏・河内達芳氏。
土佐山田の横矢武雄のおんちゃんから御親書を頂戴した・・「昭和12年4月から17年10月まで協会でお世話になりました。在療時おんちゃんという言葉を自然とつかうようになっあのはつまり元祖は次の方々がはじめたのではないかと思いますので必ず出席するよう通知をだしてください・・として、中越通雄・朝倉智・植村重勝のオンチャンをご紹介いただきました。


30周年記念式典 昭和57年5月最後の土曜日 (初日) 昼餅つき大会 夜 寮祭(例年通り) (二日目) 昼 庭にて30周年式典
開寮記念碑建立・記念誌発行・環境整備(54年協会は皐月の植樹) 宴会・垂れ幕・記念品はタオル200本・神主さんへの謝礼等で100万円
(小屋移転・境界線・スポーツ施設などの環境設備・県外自治寮との交流

碑文アンケート 君汲川流我拾薪 日本の春は太平洋から来る 相互信愛 望郷 真実一路 猛進 創造・健康 誠 愛

土佐寮掲額の作成 やなせ杉 手島右卿 「行横里萬」

5月30日・式典当日・午後1時より記念祝賀会(第2日目の寮祭には、例年30名ほどの東京近辺のOBが参加しているそうです、との情報を載せ、JAN.12.S56発信で「藤田・長崎のおんちゃんんの友人で愛信企業観光(安藤さん、取り扱い主任片岡さん)扱いのツアー呼びかけをおんちゃん会事務局はしている)
5/28高知発16:56 鉄道 5/31東京12:00ごろ発 飛行機 高知AP ¥34,840. 往復とも航空便 ¥39,600。オプショナルツアーの一例 ¥15,000 5月31日 新宿 バスにて 河口湖・富士山芦ノ湖・元箱根・十国峠 熱海泊 29日泊は新宿ビジネスホテル¥5,000円を予定 往復はがきでご案内。
ほかに、A案 往復航空便で吉祥寺と石和温泉2泊3日¥66,500円、B案 オールバス便 同吉祥寺泊石和温泉泊の2泊で¥43,500円の案

実行委員会長は有光次郎さん(HP作成者註:東京都文京区・育英協会常務理事・日本芸術院長・元文部次官・文化財保護委員会委員・高知市出身)、副 柳井清澄・自治会総務、東京地区 安岡清夫・土居音三郎・大崎巌、高知地区代表 森澤栄晴・谷村健助・大崎重男(父兄会会長)

募金計画案 高知県関係(250人みこむ OB75万 一般25万 父兄15万)、東京(県外)70人見込む(OB20万 一般15万) 趣意書の発送は土佐寮寮監の病気入院のため遅れているが、10月下旬になる予定・おんちゃん会総会出席の学生自治会代表が関係分を切手ともに持参の予定)
目標150万円・一口5千円・締め切り昭和57年5月末日・四銀東京支店普、浜口雄幸先生の萬里横行の教訓を碑文とす)・記念植樹(山桃・トサミヅキ)土佐量の看板製作・環境整備・図書室整備と図書の充実

56年1月25日高知新聞に東京レポートとして「土佐寮」の学生たち 今西寮監(中央)を囲み、記念事業の準備に忙しい寮生たち(三鷹市井の頭の東京学生寮監室にて)山地(寺村)のおんちゃんのお顔が見える写真付きの記事7段

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このころ、おんちゃん会事務局宛に寮生現役から半年に1回(年に2回)挨拶状を頂戴できていた

昭和60年前期役員 総務土本重行、内務大石剛司・池田正志、協会会計森田剛志・尾崎賢二、自治会計浜崎泰山・松本志保、総務議長小笠原雄二
昭和61年度後期役員 総務桑尾和志、内務山田雅人・桑尾憲二、協会会計尾崎晃文・中野且仁、自治会計や正樹9健一・小松正延
昭和59年度前期役員 総務村井尚彦、内務小笠原雄二・池本佳正、内務小笠原雄二・池本佳正、協会会計土本重幸・山崎尚志、自治会計彼末浩一・猪原彰一、総会議長井上明
昭和58年度前期役員 総務谷幸永、内務村井尚彦・岡田貴昭、協会会計井上明・前田敦、自治会計間崎和郎・宮崎晃行、総会議長は竹中浩之
昭和57年後期役員 総務小松浩志、内務矢井田学・明神孝之、協会会計上田英雄・藤森俊樹、自治会計石川貴敏・鈴木勝也、総会議長池沢克哉

第5回土佐寮おんちゃん会総会 10月17日(土)6時半より 魚竹本店(会費5,000円) 高知市本町1−4−10 大衆酒場「珍々亭」気付

昭和56年度後期役員 総務麻岡誠司、内務神明幸男・松村和彦、協会会計門田弘行・高石聖、自治会計江間俊哉・片岡篤、総務議長金本聡

昭和56年7月17日6時珍々亭 西沢先輩 高知大学長就任祝賀会

昭和56年度土佐寮前期役員 総務西田満夫、内務小松浩志・村井新一、協会会計吉川哲・池沢克哉、自治会計松下泰広・岡村雄吾、総会議長金本聡
昭和55年後期役員挨拶状 総務小松謙介、内務河上信弥・金本聡、協会会計麻丘誠司・大崎一秀、自治会計中平法生・鵜飼真、総会議長今西祐之、懲罰委員長久礼田隆夫

第4回おんちゃん会総会 昭和55年10月18日(土)午後6時より 堺町・魚竹本店(会費5,000円)で開催みんなあきとうぜよ!!県立図書館気付冨田哲郎あて

昭和54年?前期役員 26名の新寮生を迎えた・・総務平山雅也、内務西田満夫・大崎雅文、協会会計方円克己・仲井正人、自治会計北川哲・三宮文仁
・・・土佐寮生62名新学年を迎え、勉学にスポーツに充実した日々を送っています。・・・来る5月31日(土)午後5時高齢の土佐寮寮祭を虚構する運びとなりましたのでお知らせし致します。・・・時間が許され御来寮くださいますれば感謝の極に・・・土佐寮三役・寮祭実行委員

昭和55年1月14日 育英協会理事長から 新加入維持会員数17名の名簿を添えて(既加入15名を含め32名)のおしらせあり

昭和54年後期役員 総務中嶋隆司、内務小松謙介・鵜飼真、協会会計山元高宏・山本任陽、自治会計暮れた隆夫・中田道弘、総会議長吉本龍二

第3回おんちゃん会総会 昭和54年10月20日(土)午後6時 魚竹本店 5,000円 学生3,500円

昭和54年前期役員 総務寺村斎、内務平山雅也・井下等、協会会計田村宏道・今西祐之、自治会計近森雅雄・戸梶清文、総会議長堅田裕司、懲罰委員長石本明彦  ・・5月26日(土)に第28回?寮祭予定とのことで「・・もし東京に出張される方があればお気軽に立ち寄ってくださればとおもっています・・」とのお便りを5月7日受信(役員会へ報告済み)。30周年記念式典での「寮史編集のための6項目についてのアンケートは昭和何年の年代を忘れずに、直接〒181三鷹市井の頭5の16の21土佐育英協会東京学生寮総務寺村斎あて直接郵送するよう依頼済み。6項目は既述・裸祭り、よさこい祭り・旅行という行事(現在は春は一般寮生、安芸は4年生)、土佐塾との交流(昭和36年8月9日於高知大丸)、県人会出席状況、その他行事についての6項目のアンケート。

昭和54年総務石川温基

昭和53年総務武田和章、内務寺村斎・三谷浩、協会会計籠尾雅裕・谷脇嘉徳、自治会計藤田徹也・佐古卓夫


おんちゃんタイムス 第5号 昭和57年10月16日 県立図書館内とさ寮おんちゃん会 発行人谷村健助 編集人や正樹栄三・松村勝喜 印刷(株)岩神印刷 土佐寮おんちゃん会秘話 --その誕生と歴史 -- 冨田哲郎 
名付け親の個人名は不詳である。(土佐山田の横矢武雄のおんちゃんから御親書を頂戴した・・「昭和12年4月から17年10月まで協会でお世話になりました。在療時おんちゃんという言葉を自然とつかうようになっあのはつまり元祖は次の方々がはじめたのではないかと思いますので必ず出席するよう通知をだしてください・・として、中越通雄・朝倉智・植村重勝のオンチャンをご紹介いただきました。(昭和54年度おんちゃん会総会時期にご連絡をいただきました)ずいぶん以前より「おんちゃん会」はあったのであろう。それも書く卒業世代毎に何十組かが何百回ともなく、どこぞで開いていたはずである。昭和50年代、別役匠君等の「酒豪会」というのも在ったし、時代により年度によって、各種各様の名称があったのでななかろうか。昭和30年代、私共上下2〜4年の県内在住者は、ほとんど毎年飲むために集まっていた。所期は、県外の寮友が帰郷した折に枦原のおんちゃん宅に来る。連絡があったか聞きつけてか皆ー集まってくるーーというようなところでスタート。次第に日時を定めて集まることもやり、昭和40年4月3日「土佐寮高知OB会」(通称おんちゃん会)規約が、法学部出身ということで、市原樟夫君が作成したものを承認(葉牡丹大宴会場。同夜小生は新任地土佐清水市に高知港より赴任)し、おんちゃん会第1回理事長として枦原宏輔君を推戴し発足。
「本会は、大学卒業後自己の社会的使命を自覚して、高知県に在住し、郷土のあらゆる分野で活躍する土佐寮OBが寮生活の信義と友情の理念を維持発展させてその精神的支柱を確保し、もって知性の開発と友誼の高揚に努め、連帯と共同の生活利益を追求するとともに、大学教育の成果を生きた実践の中に活用して、郷土の総合的な発展に寄与することを目的とする」「定時総会は毎年2回、4月と10月に召集しーすべて良貨の斉唱でこれをはじめーー」とした。その後、市原樟夫君・山崎聖彦君・寺田洋二郎君・川添裕一郎君と引き継がれてゆく・
40年代末には若者の寮離れ傾向に併行し、会も低調になっていた頃、寮母中須七女l子女子の退職(27年から51年5月まで勤務)の時期を迎えることになった。
感謝の意を何らかの形にして表したいとの声があり、大阪の意向をうけて藤崎正行君が帰高したことを期に次第に具体化(当時、県立図書館に30年代の寮監河内達芳氏が館長として在職(私も命により県立高校から県立図書館に転勤務していた)していたので、図書館に枦原・藤崎・中西の諸君が集まり、秋までには実現させようとして事務局をおくことにした。
この頃、長崎俊太君の珍々亭の常連の一人であった川崎博道君より、久しぶりに大きい総会のようなものをやっては如何か、みなもそう言いゆうがですが」との訪問もあり、酒豪会(新しく卒業して帰高するOBは、みなこの会に入っていて、力強い一派をなしていた)もあり、ここらで年度の枠を外し、たとえば砂土原寄宿舎の先輩にも御参加いただきたいし、というようなことで、52年8月ごろより準備を始め、10月4日はリマや町「十字路」に市原樟夫・枦原宏輔・谷村健助・宇賀茂興・土居篤・上村雅志・川田に考海・真城敏之・藤田至誠・清水康文・山崎聖彦・前田純彦・長崎俊太・川崎博道・松村勝喜・和田脩・山下清作・小松雄吉(順不同敬称略)が集まり、砂土原・南洗足・井の頭に連なる「土佐寮おんちゃん会」総会の設立総会(同年10月12日得月楼)をむかえた。
規約は全面改正となり、「本会は会員相互の親睦を図ることを主たる目的とし、財団法人土佐育英協会および郷土の綜合的発展に寄与するものとする」とし、事務局は57年まで県立図書館内に置いた。
「そろそろ(人の)世話が出来る年代になったし(土居篤君)」「みんなの子どもも大きくなりゆうし(川崎博道君)」等の発言が今もうれしく残っている。
中須のオバサンの記念品贈呈は東京の福島昭雄君を中心に推進されたし、井の頭30周年記念事業は、当時学生の寺村斎君・中村元彦君等の努力の積み重ねで56年・東京井の頭で盛大に挙行された。この5年間は、財団法人土佐育英協会の土居増喜氏の格別の御熱意に負うことが多く、この機会に感謝と敬意を表する次第です。・・・「おんちゃん会」の存在意義は何であろうか。・・経過の一端を記し、また、次の機会には、世代の異なる「おんちゃん会」の即席が掲載されることも期待しつつ。S7.10.1 記

 
おんちゃんタイムス 第5号 昭和57年10月16日 県立図書館内土佐寮おんちゃん会 発行人谷村健助 編集人山崎栄三・松村勝喜 印刷(株)岩神印刷 洗足寮とおんちゃん 枦原宏輔(S30・明大卒) 註;昭和に25を加えたら西暦に換算できる;昭和57年は1982年
30年前といえば、戦後の復興がはじまったばかりで、米は配給制であった。その頃は、ネズミも同じ食糧難だったらしく、我らの米ビツに唯一の食料源をみつけて彼らは、毎夜一族郎党をひきつれて襲ってきては、朝方舌鼓を打ちながら、無数の糞をみやげに残しtれ引き上げるのである。
おかげで、炊き上がった我らの麦飯は、ホッカホカの糞めしにはや代わり・・・・。そんな時代に苦楽を共にした寮友たちも、年を経るごとに疎遠になっていた。
さらば!と、思いたって、5月29日の「土佐寮30周年記念式典」に参加することにした。・・・当日の二次会は「いせや」に、東京オンチャン会が用意してくれていた。行って見ると、懐かしい顔、顔、顔・・・・。会長をはじめ、OB・学生・約50名が参集した。ケンピのオンチャンこと浜田憲三郎先輩(東工大・伊野出)が挨拶で曰く、「土佐寮から”オンチャン”という言葉が消えている。これhは是非とも復活するように願いたい・・」(このことは西沢副会長も先ごろ提唱されていた)頭の白くなったケンピのオンチャンの話を聞いているうち、30年前の千束時代を思い出して、千束へ行ってみたくなった。
昭和26年の春。小生の土佐寮生活の始まった日。「オンチャン、オンチャンは高知のどこに出ぞね?。」「オンチャンいうたら、ボクのことですか?」「ン、オンチャンンのことよ」「しないです、蓮池町です」「そうかね、あしゃー赤岡じゃ。よろしゆう頼む自尾根」上野の西郷さんみたいな寸詰まりのカスリの寝巻きを着たいかにも人のよさそうな先輩だった。(nozakiのオンチャンいまどこにおいでますか?)
当時の先輩たちは、学徒出陣などでで戦火をくぐった人や、旧制高知高校から進学してきた人やら、とにかく大きい人ばかりで、18歳のチンピラ青年にしてみれば伊庭シィ尾がないくらいちぢこんでいた。その中での”オンチャン”であった。
言葉というものは、時・場所・使い方によってこんなに受け取り方が違うものだろうか。不思議なことにこの、
オンチャン"によって、それまでコチコチの気持ちがスーッと楽になったことを今でも覚えている。土佐寮言葉の”オンチャン”は、実にニュアンスに富んでいる。敬称であったり愛称であったり、その底にはなんともいえない連帯感みたいなものが感じられる。そしてこの素朴な言葉にインテリジェンスさえ感じられるのではありませんか、諸君!
池上線・長原駅下車。国道をつっきって坂を下りる。洗足池のほうに向かうと、なつかしい家並みは昔と変わっていない。この辺りに来ると胸がドキドキしてきた。銭湯の行き帰り「あそこの奥さんは、ショウ美人じゃねや。旦那の顔がみてみたいねや」などと言いながら通ったあの
寮への道である。
”アッタ!・・・”(株)関東精機事務所(故寺尾豊先生の会社)の看板を掲げてある建物は、まぎれもなく洗足寮の一部である。(2階の自習室と4号室の部分)、ガレージとなっている玄関や食堂の部分に立って、思いの糸をたどっていると、30年前、井の頭移転を控えて最後に聞いたあの熱狂的なファイヤーストームの喚声が聞こえてきた。

おんちゃんタイムス 昭和54年10月20日 第2号 思い出 断片 西澤弘順 
私が砂土原町の土佐寮に入ったのは、昭和16年の春である。その年の4月に大学に入学したのだが、どういう訳だっだったか、はじめの1ヶ月くらいは公害の叔父の家に厄介になり、そこから学校に通った。入寮の面接があったと記憶する。いろいろないろな質問をされた容姿端麗な紳士はあとから考えると後に文部次官をせられた有光次郎さんだったらしい。
当時の寮は中庭を囲むようにして、北舎、食堂、南舎、集会所があり、門尾脇の売店には小橋さんのご夫婦が住んでおられた。高校の先輩や中学の友人たちが沢山いたので、異郷の監事は少しもなかった。量からかなり急な坂道を濠端まで下がったところに都電の新見付けの停留所があり、底から電車を2回乗り換えて本郷まで通った。一度学校からの帰りに、近道をして歩いてみようとして、路に迷いとんでもない方向にいってしまったことがある。東京の本郷、小石川、牛込辺りは、大通りからわき道にそれると道が曲がりくねったところがやたら多いことを知った。
寮の夕食を済ますと、悪友うちつれてよく神楽坂まででかけたものだ。坂の中腹の向こう側から築土八幡のあたりにかけて、入り組んだ路地が沢山あり、その界隈にはわれわれ学生でも入れるようなおでん屋やスタンドバーが並んでいた。富士とかホワイトベアとかいう名前を今でも覚えている。縄のれんでどぶろくを飲ませる大衆酒場はたしか「いいざか」という名だったと思う。坂の中ほどにトルコライスというのを食べさせるレストランがあった。よろい亭かかぶと亭かどちらかだった。映画館は牛込館があり、ここには古いフランス映画などよくかかっており、おかげで遅まきながら、ジャック・フェーデ、ルネ・クレール、デュヴィヴェなどの名画に親しむことができた。
寮から神楽坂への何本かの道筋は、静かな屋敷町で、波野(中村村吉衛門)、河合(玉堂)、などの表札を見て住む人の有様を想像したり、古河(市兵衛)、」穂積(重遠などの豪邸に度肝を抜かれたりしたことがある。吉屋信子の瀟洒な邸宅があり、一度友人の氏原君と神楽坂帰りの夜更け面会を申し込んで、」女中さんに断られたことがあった、量の門を出てすぐの右側はピアニストの弾みち子さんの家、左側は挿絵画家の細木原青起氏の家だった。これらの家の表札を見て歩くと、いかにも自分が、わが国の政治経済文化の大中心の東京に暮らしているという実感が湧いたものである。寮での楽しい思い出の一つは時折のピクニック(本当はハイキングといったほうが適当)だ。正丸峠には先輩の宮田さんがアルバイトに行っていた第一生命の女子社員の何人かが同行し、その後1,2度誘われて映画を見た。高尾山には寮外生の女子学生も一緒に行き、そのときの記念写真がアルバムに残っている。茅倉尾根の縦走では、出発が遅れたため山中で日が暮れ、おまけに雨になり惨憺たるものだったが、途中で追い越した女ばかりの親子連れのことが気にかかり、一同大いに、義侠心(?)を発揮してとってかえし、山道で途方に暮れているその一行を無事に「救出」したこともある。是非ともお礼をということで、牧野さんというその一家のもとに招かれて、おおいにご馳走になったことだった。
私は1年余りで寮を出て、本郷の下宿に移ったが、そのあとつづいて私の弟が寮でお世話になった。その頃は太平洋戦争の戦局がようやく険しさを増しつつあり、やがて多くの寮生は学徒出陣で戦地に赴くことになる。戦死した弟のアルバムは学生服に白襷をかけ、手に寄せ書きの日章旗を広げた、学徒出陣の寮での送別写真が残っている。



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