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平成17年度の役員会席上、リンクの数を増やすと検索の際・上にくるようだとの話を聞きつけたので、貼る次第 株式会社トミナガ(平山のおんちゃんの勤務する会社)

http://homepage3.nifty.com/OSP/   KKオーエス製作所 Original Systems Planning 取締役工務部長 岡村のおんちゃんの会社のHP

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手元の資料からの覚え書き 2010.0.3記 カウンター.com
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現行の土佐寮おんちゃん会の創設前後のこぼれ話

昭和40年4月3日 土佐寮高知OB会通称おんちゃん会規約発効 昭和52年10月12日 全面改正

昭和52年;8月19日珍々亭会談、8月25日準備委員会;枦原・冨田・市原・藤田・川崎・亭主の俊太;名簿整理は砂土原町を含めS20〜31年を枦原・冨田、S31〜33市原、34〜37藤田、38〜41清水、42〜52川崎ほか2〜3名。準備委員に山崎聖彦、田中高光入れる。9月5日準備委員会(日程・組織の趣旨とか目的・中州のおばさんの顕彰金一封・グループの会はOKなど・規約なども)、9月14日発起委員会、25日会券仕上がり10月15日会券集計

昭和52年9月5日幹事会;上記のメンバーに加えて、前田純彦・和田脩・土居篤・松村勝喜・真城敏之・清水康文の13人:9月8日スプーンで開催;9月14日珍々低で発起人会、10月12日午後6時から得月楼で総会(総会と記録していた)・5千円の会券を売る(売るとかいてある)、一人200円〜1500円程度で中須のおばさんへの志・浜田先生へのおんちゃん会名義の花輪11,000円をまかなう・・。20〜20名余の発起人を作ろう・当日までの会計は山崎・松村、・・。S52.9.8十字路で規約草案審議(土佐寮高知OB会通称おんちゃん会規約は草案段階で高知OB会は削除した)

生永、尾崎、松本氏から砂土原町寄宿舎生(対象13年頃より昭和10年頃?としての名簿「44名分、うち11名は物故」入手「東京在住4・住所不明9・当時の塾長 谷村健助・田村豊崇戦死・・」

10月12日付けの収支決算書(庵)によれば、会員券売却数111名、当日参加数15名の計126名、当日出席117名。寄付行為者数 13名(2000円9名、3000円3名、3,500円1名)。支払いは、得月楼支払い分432,146円、総会開催準備70,450円、浜田幸雄先生告別式立て替え金10,100円、景品代5,000円。利益金247,555円。来賓;中内知事・大町県出納長・西尾県総務部長・楠瀬文書学事課長・吉良文京協会事務局長・小笠原南国市長・河内県立図書館長・今西現寮監

おんちゃん会規約は、S40.4.3土佐寮高知OB会通称おんちゃん会規約発効。S52.10.12全面改正

規約 1条〜8条。 補則 昭和52年10月12日本会設立当初の名誉会長、名誉顧問および役員は次に掲げるとおりとする(この字はHP作成中の私・冨田の字なり、下の端の書き込みは・さてどなただったのだろう)



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元寮監 山脇正隆氏 土佐市甲原の生んだ陸軍大将 没後丸33年(平成19年) ポーランド独立(再興)にあたり水面下独立支援・1920年ソヴィエト軍の大攻勢でワルシャワ陥落寸前のところ山脇は、ポーランド義勇兵を率い「ラジィミンの戦い」で勝利。後年これを「ヴィスワの奇跡」と呼ばれ同国では日本の首相よりも著名な日本人となっている。陸軍大学長・参謀本部勤務。

「平和を愛した最後の陸軍大将山脇正隆」明神慶昌著 リーブル出版 088・837・1250 ¥1,143
我 米本土爆撃に成功せり/ポーランド再興支援者 最後の陸軍大将 山脇正隆近森正博著 090・7629・8451¥3,000

ポーランド消滅は、1795年〜1918年(大正7年)123年間、@1917年ロシア革命でウラジヴォストークに逃れた流浪のポーランド人孤児救出(765人と付き添い79人)、A1918年日本のシベリア出兵時に入手した「ロシアの暗号」を手交・Bソ連ポーランド国境紛争時にキエフ市内での閲兵式に日本人武官山脇1人と仏軍参加、C1920年ソ連侵攻(8月〜10月休戦)山脇はポーランド義勇軍を指揮・日露戦争の「奉天大会戦」を参考にヴィスワの奇跡を起こす、D第2回ポーランド派遣時「武功熟章」授与される、節度ある態度やポーランド語を含む語学上の能力は傑出(ポーランド参謀本部評)。


平成19年8月15日〜8月22日大阪開催の「ワールド陸上」に向け高知県春野町でポーランドチームの合宿、高知県とポーランドとのさいしょの接触は明治8年旧暦6月8日佐喜浜漂着・ポーランド独立の志士「フォン・ベニョウスキー」がカムチャッカでロシア軍艦を奪い本国を目指す途中嵐し遭遇。林子平「開国兵談」い「ハン・ベンゴロウ事件」で海防強化を配慮すべき・・。山脇の第1回ワルシャワ赴任 1919年33歳〜1921年


土佐寮100年の歩み(平成11年11月19日・概括的暫定発行版)より要約・抜粋転記
明治32年11月千代田区麹町富士見町に創設。その後牛込区(現新宿区)砂土原町、大田区南千束、そして現在の三鷹市牟礼(現在の井の頭)へと場所を移す。
土佐同志会:明治17年10月20日発足。当時、東京大学学生・東京大学予備門学生の6名は、そのうちの1名の下宿家に集まり「龍城自治」により勉学に励む体制を整へ、あらたに進学を希望し上京してくるとさ出身の学生とも連絡をとり学習・親睦の団体となることを申し合わせた。学術討論・演説・育英事業当活動範囲を拡大・会員数156名を数えた。
富士見寮(土佐寮創設);土佐同志会は明治32年11月社団法人化、富士見寮を設置;高知県出身者の社交団体「富士見倶楽部」の建物を改築・収容人員20名。明治33年12月社団法人土佐協会と改称。
明治23年、高知県議会賛同し砂土原町に新寄宿舎;収容人員34名;土地は山内公爵家より無償借用。明治44年改築:人員44名。大正6年大震災は負傷者なく火災も免れ早期復旧。砂土原寮は、国家や郷土から有為な人材となることを期待された時代・入寮選考は高倍率。昭和期の寮生気質は特権的・自由謳歌の度合いで区別できるとされた。---昭和期はエリートでありながら世界的な不況で職がすくなく、今以上に勉学に励んだ。--国家総動員法・学年短縮措置・防空演習・下区政修練農場・文科系学生の徴兵猶予停止・学徒出陣---。
昭和20年3月9日東京大空襲で両者の灰燼--。
昭和21年〜、南千束寮;本郵政大臣寺尾豊氏経営の関東正機の行員寮の無償提供による。最初の寮母さんは安部さん、ついで吉井さん。
昭和27年5月〜井の頭寮;三鷹市牟礼に元三浦観樹将軍の別荘、のちに明治生命の社員寮・重役会など会合に使用していた建物を250万円の県・市町村の補助金と200万円の有志寄付金で購入。寮母さんに吉井さん、ついで中須さん、細川さん。

続きこの項の続き

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昭和52年11月13日高知新聞 東京支部が発足 「土佐寮おんちゃん会」 財団法人土佐育英協会の学生寮、土佐寮(東京三鷹市井の頭5−16−21
)<自分の書き込み=従来は三鷹市牟礼452>の出身者たちで結成された「土佐寮おんちゃん会」(谷村健助会長)の東京支部結成大会が12日、東京・西大久保「きた井」で開かれた。土佐寮は戦前戦後を通じて本県出身者の学生たちを受け入れ世話をしているもので、さる10月12日には高知在住の「出身者」たちで『土佐寮おんちゃん会』が正式に発足している。
同日の結成大会には高知、大阪の土佐寮関係者、首都圏在住の出身者ら35人が出席。席上昭和27年から51年まで学生たちの世話に当たった元寮職員中須七女子さん(58)=東京世田谷代田5丁目2-20、大庭方=に同会有志で慰労金100万円を送ることを決め、全国の土佐寮出身者たちに寄付を呼びかけていくことを申し合わせた。
<参考;支部長大崎巌 幹事野町淳 幹事福島昭雄・公家太一・小路英明・矢野忠・高橋浩> 


濱田 幸雄
 明治31年〜昭和49年 高知市浦戸町生まれ 県立1中・第3高校・東大法学部・大蔵省入り、広島財務局長、専売局長官、満鉄理事、東北興行総裁、昭和24年無所属出馬惜敗、昭和27年自民党公認で初当選通算5回、昭和42年44年連敗、昭和46年自民党公認参議院当選・・・。高知市の潮江天満宮に胸像・・石碑に・・資性剛直清廉辺幅を飾らず寛厳自ら備わり富貴を求めず権威に阿らず時に孤高を守り常に正を持す民族の独立道義の振興を旨とし文教育英に生涯を捧ぐ 事に當たって私心を挟まず誠信を以って政治と人生の大道を歩み衆皆厥徳を仰ぐ


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名簿に寄せて
     谷 村 健 助

長い間「大きな忘れ物をしていた」というのが、この際偽らざる実感である。砂土原町の寄宿舎、千束寮やその後の土佐寮でお世話になった方なら何がしか、お気付きになられたことでしょう。ところが、それも時代別のグループで親睦会をやっている程度である。
寄宿舎の場合、私の年代でも二十数名が集まって昔を懐かしんだものですが、それも世話役しだいで年をふるにつれ、いつの間にか消え去りかけていた。
数年前から土佐育英協会の役員に選ばれ、会議の度毎に料の運営の議題が出る。それは決して楽な話ではない。私としては、十分お返しもできなかったものですから、身につまされて仕様がなかった。私が昔の育英生であり、そのうえ寄宿舎でお世話になった関係で土佐寮の話が出るたびに一言せざるを得ない立場におかれていた。用は寮そのものが経理的に恵まれてないこと。昔のような貧乏学生ばかりではなくなり、入寮希望者が少なくなるという現象が現れだしたという報告を聞く場面もあった。そんなわけで、土佐寮の関係者が率先して、窮状を救うべきであるとひそかに考えたものの、自分の年代の名簿さへ行方不明の状態になっていたので、それを探し出し、さらにもっと若い年代の人にも呼びかけていたのであります。
昨年秋、ある日突然、枦原、冨田両君が現れたのは土佐寮おんちゃん会の話のためである。すでにおんちゃん会結成の庵が一応できており、その初代の会長になってくれとの要請である。私としては、考えてみれば、こんな有難いことはない。私が独りで如何にして同士を糾合しようかとかアクセクしている間に、若い寮生出身者の間で話が持ち上がったという。願ったり叶ったりでコオドリしてよろこびたいところである。他に適任者や希望者も居るかもしれないが、事土佐育英協会に関係するコとでもあるので、僭越をも顧みず私が立ち上がるのも、おんちゃん会の発足には必要なこともあろうかと瞬間的にひらめいたので、即座に会長就任を引き受けた次弟であります。聞けば、この場合中須のおばさんを主人公にした、当時の寮生諸君の麗しい物語が唯一のキッカケとなり、土佐寮おんちゃん会の生まれる端緒となったものである。それはそれで結構である。その時代の大半の在寮生諸君の感謝の念が結集して強力な原動力となり、遂に実を結んだものである。これを大多数の寮卒業生にしてみれば「大きな忘れ物がみつかった」と喜んでいただきたい。このことは、土佐の教育・育英事業にとって画期的なことであり、こんな嬉しいことはない。
さて、会の基盤となる名簿を鋭意作成中であります。第2回総会にあたり、ご出席の会員医差し上げます。熱心なる会員から沢山の情報を寄せていただき、また広告の協賛を賜りました。謹んで厚く御礼申し上げます。

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