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橘紋;一般に、右近の橘、左近の桜と対比される。桜はどこか死の匂いがする樹木であるが、一方、橘は、その葉が寒暖の別なく常に生い茂っていることから生命力や長寿の象徴とされた。橘という植物は柑橘類、和歌山県、山口県、四国、九州の海岸に近い山地に自生している橘紋の分布は全国では9位。桜紋よりも圧倒的に浸透している。

  
富治嫁入り後・桑畑(大正2年に買取・桑畑ににし(それまでは2年ほどは小学校の南まで買いに行った。熊代は肩が凝り百姓仕事が出来ず桑を購入していた。リアカーはまだ無く担ぐ)、良太郎<郡長をしていた>屋敷から・ごろごろと今の場所に転がした蔵)丑太郎と良太郎との境界はこの畑の東端の小道に3尺路の址(石組)は今も確認できる。(富治は西ノ島の福島から働き者の評判で嫁入り・2008年1月12日23回忌を迎える・その長男である守郎翌09年7月28日13年忌、その翌年11年哲郎金婚で喜寿)。家紋(じがみに橘紋)入りの御椀は40組幸太郎の61で作り・守郎の婚礼のときに一度使った(昭和50年から~現在・民子が茶事に使用・今に役立っている)。

 
桑畑の東スミには中川熊之助宅であったものを良太郎が買い上げ、熊之助は井口村へ移った(安芸で飲み屋を営んだ)そうである、哲郎(昭和9年生)には桑畑に家があったとの記憶はない。富治からの聞き書きである。戦後は,桑畑を柿にした。昭和60年ごろには酢みかんを3本ほど植えている。柿は次第に老木となっている。蔵の東側・門の東南側には葡萄棚(平成に入った頃から爪楊枝の植田さんくからキウイ(柿畑最西端・雌雄2本植樹)が入り・門の前のキウイはラストエンペラー(丸ァるい形)が葡萄棚でつい最近まで同居していた。庭(「ツボ」と呼んでいた)は農作業のスペースでありどこの農家も家の中にあった)は、戦後しばらくして、庭に成っていった<庭木・芝・庭石・築山・池・・。納屋やミソ醤油置き場には麹の香りが在ったが、多分・平成になったころには次第に薄れて失くなって了った。

与三兵衛(86歳・明治8.8.24没)どのうより川北久保田へ出向・猟師・寅次の頭へからすがとまり「人の頭へ」と追い詰めて撃ち落す。寅治(大正5.8.22没)左官・胸毛の濃い人で天神町の広瀬元雄(天理教前)さん宅の前に川l北より歩いてイモを作りに来た。よく肥えた地で頭くらいのイモを作った・なんちゃーうまくなかった(広瀬さん談)。幸太郎(大正11~12年に1,350円で割払いの講で家屋購入「井口通りに家を買い熊代お菓子やを開く、幸次郎帰郷のとき裸で2階より迎えた(守郎談)・WW2後富於(この時期クリスチャン)一時期生活のち久保田へ、紀子俊郎へ読み聞かせ子育て等・長女郁子の哲郎出産のおり産婆の資格を取得。佐竹石松・富於の墓は興津から昭和60年8月ごろ(守郎郁子哲郎佐竹正清福島正雄が佐竹直郎・直作の墓も同時に川北へ移した。当時川北にあった子どもの墓(5歳以下の士はトバスというて墓石は作らず石のみ置いた=敏樹談)をチエを昭和62年窪川高校勤務の哲郎役場で千恵の字がわかり墓石が出来る(佐竹千恵・5歳エキリ死)。いしのみの墓はもう一つあったかもしれない(62年のメモ在り)。

井戸は女の仕事・良太郎も中川も水を母屋の西北隅部分の(床下)現存する井戸にまで汲みに来ていた。幸太郎は酒・寅次は秋田焼きの小さいビンで焼酎を酔い覚めに飲む。東の良太郎(安芸郡長)の屋敷は対象2年に家の売買(敏樹出兵中)、近所の人で入札・土地と鞍を幸太郎買取・大正2年(守郎は大正元年生まれ・子年)に桑畑とする(WW2戦後に柿、のち「鳥小屋・みかん・さきはまからのイタドリなど」混在。熊代は片につかえるというので百姓が出来ず桑を購入していた・寅次川北より旧郵便局のところへ2年ほど桑を運びに(買いに)行った・リアカーは無く担ぐ)。良太郎の郡長時代に植えた柿がつじのもうた柿(南の小川の横・蔵の東・いま仏手柑のところ・昭和51年台風で倒木)。富田の紋入り(ジガミに橘)の碗などは幸太郎の61に一式そろえた・40組・守郎郁子の婚礼で1回使った。
幸太郎は、井口通に家を買い熊代お菓子屋。熊代死後・富於一時期ここに生活。大正11~2年に1,320円で割払いの講で買う(富治)
幸太郎・熊代の子は、上から富於67歳S26.9.30没、久恵60歳S21.10.30没、敏樹78歳S44.5.5没、たまみ(伊尾木の有沢へ嫁ぐ)
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富治(1985年92歳没)からの聞き書き(哲郎)

産(オブ産土神))の神様・お氏神さま、日本国中の神々様!、どうぞ大難を小難に、小難を無難に。悪事はやりやまいを、おんけちがえて下さいませ。

(初卯旧暦11月)初卯のまつり 餅を1臼搗く。音を立てぬように1臼搗く。川の柳でハシを12人前作る。魚を前の小川で2匹すくってきて添える。柳の葉を12枚添えて、どこでも良いのでおまつりする。近所へわけていた富田家もあったとのことであるが、普通は家族のみで頂く(家族でも嫁入り前のおんなは、その神様が他所へついていくので、食させなかった由。(これについては、「いやしじゃろう。附いて行ったら、その家のものが神様に食わさなイカンなるから」と説明した)。初卯について、富治は「彼岸には家をててるとか嫁入りはやらんのが、最近は、たかあ中日に(注:彼岸の中日・3月23日春分の日)、嫁入りするかよと、久保田の中でもじぐりのじぐりの大ジグリの人が話ゆう時勢じゃきに、初卯のおまつりをせいでも(しなくても)御先祖のお祭りだけで結構だから・・。初卯は冨田に嫁入って、熊代さん(幸太郎妻)から習うた。(昭和47年3月23日の記)

冨田家のボン(旧暦7月14/15/16) ①竹は13/14/15/16と高ボテをたくが、うちは、14/15/16のみにして、高ボテの燃えているうちに「センチの神様、ウスシの大明神様、家来のさんすけ」と口で唱えて、便所・風呂前で松切れを燃やす。②川に火を焚く(14・15日の昼)、そして「ふるせんぞん、そうずごのオジ・オバ・いとこはとこにいたるまで、おんあるかたは全部受け取ってくださいませ」と唱える。(昭和47年3月23日の記)


幸太郎と丑太郎との間には南北に竹垣の塀。西北端母屋は、敏樹の生まれる3年前に建築。

堆肥舎(もと・丑太郎の家跡でわら小屋としてもみを扱いていた)、敏樹は種牛の業もした(猟銃、晩年は歌謡踊りを趣味に)し、牛小屋から掻き出して堆肥舎へ。堆肥者と鶏小屋の間に(サイロの北側・これは就労の作品・乳牛飼育・安芸ミルクプラント経営、羊豚ウコッケイなど鶏の肥育)タバコの乾燥場の建物(一度哲郎小学校時に火災あり)があった。

鶏舎とサイロの間には、三尺道の境界=跡が石で確認できる
母屋南側のモチの樹(枝を払い・水の中で石で搗くと、小鳥がとれた)は、牛をつなぐため・敏樹が少年時代にシマから担いで帰った
納屋の西南端に18表分のモミ倉、納屋の西北端に100表分のモミ倉。納屋と離れの間に中の物置(南は滋賀幸次郎の勉強部屋)

上が北。西はしの南北の塀は西岡家の塀。西へ流した流水は西へ西へ(4軒ほど)流していたのを西岡家の塀となり、南へ流れるようにした。富治嫁入り後。水路は家の北側添いの小川にもあり、南側の道路南側添いに現在もある。

井戸は女子の仕事、富田良太郎(安芸郡長)も中川の家も水を汲みに来ていた(富治)、良太郎・中川の家地は幸太郎の時に購入か!。幸太郎は酒、寅治は秋田焼きの小さいビンで焼酎をを酔い覚めに飲む。丑太郎の家は寅治が買い上げ。富田の紋章入りの盆・碗は幸太郎の61で一式そろえた・40組・守郎郁子の婚礼で一度使う、民子が茶に10組を高知で活用。




トウス 昭和初期・自宅で精米、手で回した・牛で利用することも出来た。精米。約30cm×80ccmほどの竹かごの環に赤ty地を詰め込む・手回しするハンドルを埋め込む・たたき固めて、下側に三分(1cm?)厚みのカシの木の歯を据える。
下うすは直径150~200Cm・高さ25CMほど。竹を土で囲み、その上にトウスをおき、土の乾かないように水で湿しながら使用した。
かなばしで脱穀した米を、トウスで撞(つ)いた後、トーミ唐箕)でサビテ、千石・万石にかける(太さで選別・1番目2番目3番目4番目と、つまり、小米→良い米→混じり→籾(モミ)と出てくると、混じりは更にトウスに回す。

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日本家系協会出版部(昭和49年7月限定400部)中央区銀座3,8,403-567-6013より抜書き 富田(冨田)一族
冨田姓は一根一流にあらず いわく、武蔵国児玉党(鎌足を祖)、桓武平氏流、清和源氏宇野氏流、藤原北家秀郷流、宇多源氏佐々木流、諸国の富田(富田)一族;岩代国・上野国・越前国・加賀国・甲斐国・三河国・大和国・河内国・紀伊国・摂津国・讃岐国・周防国・豊後国・因幡国・讃岐国寒河郡富田邑の富田左近光輝は大井城主・阿波国名東郡に富田庄富田社の禰宜、南朝忠臣富田六郎(伊予国人)などあり・・。

河内国丹比治郡富田庄の地名を負う富田氏は橘姓楠木氏が族葉なり。広厳寺の楠木一族霊碑に富田七郎正武と載する日となり、湊川にて戦死す。足川郡毛人谷城(富田林町毛人谷)は正成の設けし城砦の一にして、のち富田氏が居城となれりという。

讃岐国富田氏;讃岐国諸語であった細川家に仕える、先祖は安芸の守安親。大永年中の重吉郎安祐の子得左衛門安勝(重澄9は七宝山神恵院に種々の貴信を行い観音寺に住む。新太郎安広(重道)、太郎左衛門安政(重森)を経て、與太郎安晴の時に、細川氏の没落により浪人、坂元郷に移り、以後黒淵村に住す。・・。

一族の家系図は、ご存じのように・土居の冨田康政さんが藩政末あたり以降を仕上げて下さっています。2年ほど以前に(2年遅れほどで)同じく土居の横山茂男さんが枝族にまでもひろげたものを、仕上げてくださいました。(2009年12月・書き込み)

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先祖まつり(一族) 1月18日 9月18日 回り持ち輪番制で墓掃除と祭り準備を担当・当日日没をめどに親睦会(この15年ほどは、出欠に関わらず会費制5千円)

昭和23~24年までは、旧暦で実施。ひところは14~15人(家族)参集。が、実際に集まるのは6~7人で、ずっうっと続いている。2010年1月には7家族(以下は、そのときの情報)。「どのう」の道路拡張で寄せて呉れとのことで、社の移転となり、道路補償費用の中から・上の現在地(「どのう」の冨田の墓地に移築<良朋さん(こうけんさんの父親)が「わしが作る」と>が現存の社を建立。宮田岡から、良太郎が家を買うてきて・朝鮮に行くとき蔵を幸太郎が購入、母屋をかわら屋が購入。家紋はぢがみに橘と・丸に橘の2種。丸に橘は(聡明さんとこ・弘昭雄二おじ甥宅)。ただ、丸に橘は川北にはわりと多いようで、武井も有沢も丸に橘。少ないときでも久保田のかわら屋・聡明・守郎の3軒は続けていた。社からまっすぐ降りると「どのう」に帰着く

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日本家系協会出版部(昭和49年7月限定400部)中央区銀座3,8,403-567-6013より抜書きの続き

武蔵国児玉郡冨田邑 周防国都濃郡冨田郷 伊勢国朝明郡冨田庄 河内国丹比郡冨田荘 紀伊国牟?郡冨田庄 三河国加茂郡富田邑 近江国愛智郡富田庄 近江国浅井郡富田邑 下野国都賀郡富田庄 磐木国磐木郡富(戸)田邑

鎮守府将軍藤原秀郷の後裔が児玉党冨田一族という、卯月、下がり藤の家紋;下野都郡・相模国等に発展したという。中に足利氏流冨田一族は江戸幕府につかえ甲府城勤番(享保年8月13日)になりし家あり(富田景隆:200俵)


◎ 宇多源氏佐々木氏流富田一族 近江国に宇多天皇皇孫の源姓佐々木氏の族葉に富田氏あり(太平記巻2富田判官の一党、巻8と見た孫四郎、巻32富田判官、巻38富田判官秀貞)。本貫の地は近江国浅井郡富田邑とも出雲国能義郡富田邑といhものあり断ずるに難しという。近江国には愛智郡にも冨田の地名があって、ここより京極家臣冨田新七の名が浅井三代記にあるという。又、由緒のことは藩翰譜に詳しい。この富田豊臣太閤の近江長浜の城を領し給いしより仕え、命により伊勢の国・戸木の城と言いし木造の城を守り平左衛門尉・滝川左近将監一益と共に)ておったところ、一益は尾張の国蟹江の城(信雄のためにこの城を守りおりじ前田輿十郎と謀り)をとるために兵を出したが徳川氏に攻められ降伏。のち一益はふたたびこの木造の城に帰ってきたものの冨田は「かたきのなかより帰り来ること疑うbところなきにあらず」とていれざりき。このために秀吉は、富田を従5位下に叙し左近将監に任じ、伊勢国安濃津の城を賜った、信濃国信高。のち、慶弔5年の役に徳川殿に従って東国におったが、伊勢国に帰ったところを毛利にせめこまれ・戦後、同13年伊予国板島(現在の宇和島)の城に移った。18年18日。11万石一説に10万石。罪を蒙りて所領没収せられ森伊予守(一説には奥州岩城に流され鳥居左京亮)に召預けらる。

宇多天皇ー敦実親王ー雅信(左大臣)-扶義(参議、中宮大夫、近江源氏祖)-成頼(左近将監初めて近江国佐々木に住す)@経頼(参議)-章経(式部丞)-秀義(佐々木三郎、六郎判官為義猶子)-義清(隠岐と号す、相模国大庭に住す)-泰清(隠岐太郎、従5位上、法名泰覚)-義康(従5位下、肥後守富田四郎左衛門と号す、法名義覚)ー師泰(佐渡守四郎左衛門)-秀貞(伊予守富田判官)-直秀(弾正小弼)-重知ー助知ー知信ー信高(信濃守信高)-知儀(のり)-知郷(元禄6年12月18日2千石武蔵国埼玉、下野国梁田・足利三郡にうつるー知徳ー知真ー明親ー知良(天明年12月23日将軍家斉にまみえる)

◎ 清和源氏流富田一族 2流あって、肥後国宇野氏の後裔。山城国お源満政の子忠重の後裔;別家ともに小石川の伝通院に葬る、別家の中で吉久・享保9年甲府城の勤番になり代々住す

◎ 桓武平氏流 富田一族に3流あり 
Ⅰ桓武ー葛原親王ー高見王ー平高望ー国香ー繁盛ー兼忠ー維茂ー安忠ー即道ー貞衡ー繁衡ー忠清ー師隆(次男)-隆家ー安隆ー義清ー清実ー隆行(奥州の清衡を頼り下向)-磐城国磐城郡富田邑発祥
Ⅱ上記 平高望ー繁盛ー維幹ー為幹ー清幹ー宗幹ー吉幹(常陸国行方郡富田邑に移り富田を称す)大掾流富田氏
Ⅲ伊勢国朝明郡富田庄に興りし冨田氏は家資(東富邑富田城に居る、元暦元年7月平氏の族乱なし大内惟義に攻められた家資また興る)-教光ー盛基(元久年4月10日より12月に到る合戦に敗れた、吾妻鏡巻3)

◎ 諸国の富田一族 
1、岩代国安積郡富田邑(出自は藤原南家の安積伊東氏流という)享禄3年の秋に伊東大和守祏盛が、富田邑に移りて、その地名を負いて称えしという。
2、岩代国芦名家の代官として(芦名氏鎌倉にありし間)合図の知を治めおりしという。・・新編風土記;会津郡下新井城跡を守っていた。また、耶麻郡塚原村の館に芦名四天王ひとり富田美作の子富田将監の居たこと・芦名没落の落のおり(天象己丑)日立の佐竹に逃れたりと伝う。仙台伊達藩の名神富田仁左衛門壱岐氏紹は会津藩富田氏の一族。2千石で小野邑を領する。
3、上野国の富田氏;勢田郡に富田邑あり、また吾妻郡に富田氏ありて吾妻七騎に、岩下・富田伊予守、山田・富田豊前守、山田・富田伊賀守。倉賀野十六騎の一に富田伊勢守ありしことを伝う。
4、加賀国の富田氏は河北郡の富田邑より興るる下りては加賀前だ藩士に多く見ゆ。加賀藩給帳を参考にせよ。
5、越前国の富田氏は朝倉氏族の豪族にして知られ、元亀3年8月富田弥六(太)郎長秀織田氏に内通し天正元年朝倉義景の滅ぶるや信長の分割支配により内紛滅ぶ。また、朝倉家臣に、中条流剣法を修め富田流剣法として名を顕わせし一家あり、すなわち富田九郎左衛門長家これなり。
長家ー景家ー重政*-重康ー重次  *重政;前田利家に仕え13,600石、剣道にて名人越後と呼ばれ柳生宗矩お並べ称される。一門の冨田一族は一放流を創め、富田牛生は富田流槍術を創む・佐分利、打身、中根などの諸流派皆この分かれという。
6、甲斐国:都留郡上野腹七騎の一に富田氏巨摩郡に富田対馬守由緒不詳
7、三河国加茂郡富田邑の地名を負いて起こりし富田氏、出自は伴姓 幡豆郡司助重ー助高ー資兼ー親兼ー俊実ー資満(富永五郎)の子に資通(富田馬七郎)
三河国渥美郡雉子山城に地頭たりし富田弾正の寛政年間に居しことを伝ふ
宝飯郡国府邑大社明神神主の富田氏・宝飯郡長沢城主長沢四郎=富田左近の子なりという。
8、大和国の富田氏は中臣姓と伝え大和春日社司。正四位下 春日社正預 富田中臣延時、永禄7年3月3日。加任預正四位下中臣延英(富田内膳)あり
9、河内国丹比治郡富田庄の名を負う富田氏は橘姓楠木氏が族葉なり。広厳寺の楠木一族霊碑に富田七郎正武と戴する人なり、湊川にて戦死す。石川郡毛人谷城(富田林町毛人谷)は正成の設けし城砦ノン一つにして、のち富田氏が居城となれりという
10、紀伊国牟婁郡冨田邑より藤原北家熊野別当の族葉であるところの鶴原行範(新宮)の子義豪の卯田氏を称えしことをつたふ。行範ー義豪(冨田郡智執行法印)  (別当法印)範智ー範秀ー範仁ー範盛;吉田少将といひ、富田南荘を領したれど天正年中に至りて領地に放たれ土民となりしこと記せるあり。応永記 富田尾張守の大内に駆け寄せ・大内が分かとうなる紀伊国住人富田といふもの、この二・三日ほどに管領の御手に降参したりけるが・・。続風土記 日高郡印南町村なる古城跡は、中越にあり、昔、当所の領主たりし富田牛之助が居城といふ。重編応仁記 牛之助は、畠山高政の属臣にして、永禄五壬戌年、三好乱のとき討ち死にす。星田系図 左京亮基宗一女、富田堅介の妻。
11、摂津国なる富田氏は紀氏流かといひ嶋上郡富田荘に拠りし家なり。富田庄は富田村にして、その城を富田城といひ富田氏の居城たり。(細川晴元の永禄4年5月入道して一清と称へしが、修理太夫と和睦なりて摂州富田荘の普門寺に入りし由・・細川両家記)
12、讃岐国守護だった細川家に仕える、先祖は安芸守安親。大永年中の重吉郎安祐の子得左衛門安勝(重澄)は、七宝山神恵院に種々の寄進を行ひ観音寺に住む。慎太郎安広(重道)、太郎左衛門安政(重守)を経て、与太郎安晴の時に細川氏の没落により浪人、坂本郷に移り、以後黒淵村に住す。
讃岐国寒河郡富田邑の富田左近光輝(大井城主)。
13、周防国都野郡富田郷より発祥。海東諸国記に、盛祥は戌子年年、使いを遣わして来たり観音現象を賀し、かねて漂流人を報じ、書して富田津代官源朝臣盛祥と称す。
14、豊後国の富田氏 大友氏が裔といひ、大友系図に大織冠鎌足ー不比等ー魚名ー藤成ー豊沢ー村雄ー秀郷ー千常ー文修ー文行ー修行ー行景ー景親(島田権守)-景親(近藤武者)ー能成ー能直ー親直ー頼康ー親時(左近将監)-重政ー重房ー信繁(富田蔵人大夫)。
15、因幡国八東郡丹比郷の士に富田治部、赤松松家年寄富田氏。
16、ほかの記述に 阿波国名東郡富田荘富田社の禰宜、南朝忠臣富田六郎(伊予国人)などあり。鎮西要略に富田大膳亮。徳川時代に中村相馬藩用人、宮川掘田藩用人、井伊藩重臣、砂土原島津藩若年寄り、岩槻大岡藩用人、富山前田藩重臣、田村ー、関藩用人、関宿久世藩城代綾部九鬼藩用人。備前岡山藩儒に富田玄真あり侍講なり。近江彦根の歌人に富田泰州・堀尾山城守給帳に25石富田惣兵衛30石3人扶持冨田九郎大夫、伏見役人に富田元右衛門。熊本細川藩儒者に富山理助敏貞(長州)、幕末に富田三保之助知定。江戸の書家に富田助之進、佐川役人付きに平姓富田俊助、飛騨高山住幕府領役人に富田稲太礼彦(節斉、南東与可楼主人)は学深く斐太俊風土記を著せり。



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富田良朋建立(最初の社殿、のち現在のやしろに再建)、もと、下の川向こうの道路の50m南にカーヴしている場所にあったものを道路の付け替えで・費用は公費で移設(あまった額でおきゃく、2010,1.18甲2463先祖祭り)和男・良朋奥方談)


昭和52年の写真を2014年にコピーした画像

 

    

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