巣箱   
同意する言葉 名言 続Z 続2000年頃のメモ 
10年か15年ほど前の社会授業用のメモの続き

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昭和19年10月23日.フィリピン沖海戰,後にレイテ沖海戦と呼ばれる,日本帝國海軍最後の決戦が幕をきった.25日,初の神風(しんぷう)特攻隊,楠家の家紋からとった「菊水隊」2機と,「敷島の大和心を人とはば・・・」の歌からとった,「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山櫻隊」が組織され,米軍の艦船に組織的な体当たり攻撃を敢行した.菊水隊は空母2隻を炎上させ,敷島隊5機は空母3隻に突入.内,護衛空母セント・ローを撃沈した.20年4月1日.沖縄に米軍が侵攻.特攻作戦は続き,海軍,2525名,陸軍,1387名が出撃していった.20年8月15日,沖縄特攻の揮をした宇垣纏中將は,「彗星」11機,22名の搭乗員と共に,最後の特攻に出撃し散華.フィリピンで特攻作戦を採用した大西中將は,終戦の翌日,「特攻隊の英靈に曰す 善く戰ひたり深謝す」で始まる遺書を残し,「克く特攻精神を堅持し 日本民族の福祉と世界人類の爲最善を盡くせよ」   辞世.之でよし 百萬年の仮寢かな

特攻隊節   作詞作曲者 不詳    白頭山節の譜
 燃料 片道 テンツル シャン  涙で積んで  行くは 琉球  死出の旅 エーエ 死出の旅
地上 離れりや テンツルシャン この世の別れ  想ひだします 母の顔  エーエ 母の顏
雨よ降れ降れテンツルシャン せめても止めよ 整備する身の この辛さ エーエ この辛さ


海軍 緒戦には勝てるとしても長期戦の場合には自信がない。 ソ連;4月5日 日ソ中立条約不存続通知(法的にはなお1年有効)。
2月11日 ヤルタ会談 樺太満州は日露戦争以前の状態へ、千島はソ連へ引き渡す
8月6日 A−Bomb マリク駐日大使により広島へ・実地に確認し8月8日ポツダム宣言に調印し9月9日対日宣戦

ポツダム宣言 ・・受諾せざるを得ない国民に公表し新聞にはノーコメントが良い、不都合だとの尾県を出せ。公式見解は発表されなかったが、午後になり、士気に関係すると軍部に迫られて、鈴木首相は「黙殺するだけである」という。これが拒絶ととられ8月6日広島にさいしょの原子爆弾投下・・
8月8日に「8月9日よりソ連は日本と戦争状態にあるべき旨を宣言す」・・ヤルタ協定の取り決め通り3ヵ月後に参戦。満ソ国境に戦車群。

梅津参謀総長 「降伏という字は日本の軍人の辞書にはなかったのであって、軍隊教育では武器を失ったら手で戦え、手が駄目になったら足で戦え、手足がなくなったら口で食いつけ、いよいよ駄目ならしたを噛み切って自決せよと教えてきた。武器を捨てて降伏せよという命令が出ても前線でうまく実行されるか疑問である」

8月9日23時50分宮中防空壕内で御前会議 民族の絶滅・・今となっては1人でも多くの国民に生き残ってもらいたい、その人たちに将来再び立ち上がってもらうしかほかにこの日本を子孫に伝える方法はない・・聖断下る・・。のち首相官邸に移り、午前3時閣議、8月10日6時スエーデン・スイスを通じ米英ソ華4国につたえられる。
--- Authority of Emperor andthe Japan Goverment to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the allied Powers ----

で、会議は進展せず、12日紛糾・13日閣議全員一致を得られず、14日午前10時50分最後の御前会議で、首相からお聞き取りいただきたいと述べ・陸相両総長(参謀総長・軍令部総長)を指名(死中活を求めて戦争を継続するほかナシ)・・天皇は「ほかに意見がなければ自分の意見を述べる。皆のものは、自分の意見に賛成してほしい」とまえおきして、聖断をくだした。発言は10日の御前会議と同じく忍びがたき忍び、将来の回復に期待する以外にないというものであり、国民はいまなにも知らないでいるのだから定めて同様すると思うが・・
「これ以上戦争を続ければ結局わが国は焦土となり、万民にこれ以上苦悩をなめさせることは私として実に偲び難い。(何でもいとわない)・・国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前に立つ」・・14日午後の閣議は詔書案の検討と放送の15日正午と決まった。

クーデターによる聖旨をひるがえす試み。軍首脳の反対したため森近衛第1師団長に強要、師団長を殺害し、偽りの師団長命令を発し、宮城と放送局に乱入・レコードを探す。クーデタ@の責任を負い、阿南陸相クーデターの最中官邸で「一死を以って大罪を謝し奉る」の遺書・自刃。杉山元帥・田中大将が自決。

爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル、然レドモ朕ハ時運ノオモムクトコロ堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ビ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス 8月15日正午に玉音放送

陸軍大臣;大君の深き恵みに浴みし身は言い残すべき片言もなし・・。軍令部長;特攻隊の英霊にもうす、善く闘いたり深謝す、最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり、然れどもその信念は遂に達せざるに至れり・・。

昭和17年11月大東亜賞発足(初代大臣青木一男)1943.8.1ビルマ独立、1943.10.14フィリピン独立。昭和18年11月5〜6日と苦境で大東亜会議;大東亜の開放と共存共栄、独立親和、人種差別撤廃、資源の解放による世界進運に貢献;東条首相、汪兆銘、タイ、満州、フィリピン、ビルマ、オブザーバーとして自由インド仮政府のチャンドラ・ボース

昭和19年;ビルマでのインパール作戦;タイの安全確保・インド反英運動を激化させる=援蒋ルート封鎖による英印中分断。のち、制空権ナシ、
2−3週間の食料と軽装備で270kmを2日で踏破、印パールを目前にして食料弾薬尽きる。戦死3万、傷病4万2千。サイパン:陸軍師団長割腹。海軍尾南雲中将・「止まるも死・進むも死・米鬼に一撃を加えて太平洋の防波堤としてサイパン島に骨を埋めん」と訓示し自決。4千人玉砕。市民北端の断崖より答申。捕虜1千人。3万の兵と1万の市民死。米軍は4tonの爆弾を積んで本土に飛行できるB-29の基地建設開始。

昭和20年;4月宮中での重臣会議;徹底抗戦か無条件降伏jか、4月5日ソ連外相モロトフは1年後に日ソ中立条約廃棄の覚書。5月2日ベルリンはソ連軍により占領される。6月18日;最高戦争指導者会議;ソ連の態度を7月ごろまでみたうえで9月ごろまでに戦争の終結をみうれば好都合。7月12日;近衛特使をソ連へ派遣決定(天皇陛下から命ずる)、7月10日・7月21日とソ連の回答ははかばかしくない。特使派遣の目的を日本より佐藤大使に訓電7月24日着。7月25日ソ連へ伝える。7月26日ポツダム宣言発表、



平成元年=昭和64年1月8日 内平らかに外成る(史記) 地平らかに天成る(書経)

(戦後)経済の5D政策
Disarmament Demilitarization Disindustrialization Decentralization Democratiztion

新憲法原案示される GHQの民生局長ホイットニーが1通の文書を、松本国務相・白州終戦連絡局次長・吉田外相の3人の前に差し出した。・・マッカーサー元帥の証人をえた憲法案をもってきた。「討議に入る前に15分だけさしあげる」1946.2.13・・「象徴天皇」「戦争の放棄」「国会は一院制」・・「では、松本案と一緒に国民投票にかけようか」21日・日本政府は総司令部案を受諾した。・・(この間の経緯は、マーク=ゲインは伝聞として「ニッポン日記」3月6日の条)・・。・・・手渡すとき、瞬時期をあわせ3機の戦闘機が窓外に反転し去る・・・
憲法改正草案要綱が発表されうと、共産党を除く(進歩的外形を装っているに拘らず、草案作成手続きの非民主性・天皇制の存置・両院制の採用を指摘し反対声明発表)諸政党はいずれも賛意を表する声明を公表。要綱発表に引き続き政府は、字句の修正と文体の整備の後、4月17日政府の憲法改正草案として公表し、同日・枢密院に諮詢の手続きがとられた。
1948年はじめ片山内閣が倒れた。閣内不統一のために退陣したといわれていたが「GHQの再軍備圧力に耐えられなかったことが原因・・」と1972年7月29日の片山内閣25周年祈念会の席上、片山自身が明らかにした・・1972年7月30日読売新聞。



元枢密院議長 80翁 法学博士 清水澄 「自決の辞」 新日本憲法の発布ニ先ダチ私擬憲法案ヲ公表シタル団体及個人アリタリ、其中ニハ共和制ヲ採用スルコトヲ希望スルモノアリ、或ハ戦争責任者トシテ今上陛下ノ退位ヲ主唱スル人アリ、我国ノ将来ヲ考ヘ憂慮ノ至リニ堪ヘズ、併シ小生微力ニシテ之カ対策ナシ、依テ自決シ幽界ヨリ我国体ヲ護持シ今上陛下ノ御在位ヲ祈念セント欲ス、之小生ノ自決スル所以ナリ、而シテ自決ノ方法トシテ水死ヲ択ビタルハ、楚ノ名臣屈原ニ倣ヒタルナリ 昭和22年5月新憲法実施の日認ム


特攻隊節 作詞作曲者 不詳 白頭山節の譜 (ユーチューブで聞けるよ)

燃料片道 テンツルシャン  涙で積んで
行くは琉球 死出の旅  エーエ 死出のたび

地上離れりや テンツルシャン  この世の別れ
想ひだします 母の顏  エーエ 母の顏

雨よ降れ降れ テンツルシャン  せめても雨よ
整備する身の この辛さ  エーエ この辛さ

昭和19年10月23日. フィリピン沖海戰,後にレイテ沖海戦と呼ばれる,日本帝國海軍最後の決戦が幕をきった.25日,初の神風(しんぷう)特攻隊,楠家の家紋からとった「菊水隊」2機と,「敷島の大和心を人とはば・・・」の歌からとった,「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山櫻隊」が組織され,米軍の艦船に組織的な体当たり攻撃を敢行した.菊水隊は空母2隻を炎上させ,敷島隊5機は空母3隻に突入.内,護衛空母セント・ローを撃沈した.

20年4月1日.沖縄に米軍が侵攻.特攻作戦は続き,海軍,2525名,陸軍,1387名が出撃していった.

20年8月15日,沖縄特攻の指揮をした宇垣纏中將は,「彗星」11機,22名の搭乗員と共に,最後の特攻に出撃し散華.フィリピンで特攻作戦を採用した大西中將は,終戦の翌日,「特攻隊の英靈に曰す 善く戰ひたり深謝す」
で始まる遺書を残し,自決した.「克く特攻精神を堅持し 日本民族の福祉と世界人類の爲最善を盡くせよ」辞世.之でよし 百萬年の仮寢かな







 

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