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WUAC・OB・第5頁 |
2007.8.4・5早大創立125周年記念「早稲田フェスタin宿毛」講演会・英語教室・スポーツラリー・運動講座等 小野梓 土州宿毛の郷生れ、17歳の冬軽挌武士の士族籍を(他家に養子にゆくという理由で)脱して平民に。後年、薩長が郷閥により、政治を壟断する弊害をにがにがしく思っていた梓は自由党(土佐人主体)への入党を拒む。生涯の理想として、「国権の制定」「学問の独立」「良書の普及」を掲げる。国権の制定は、明治15年(1882)4月16日結党の立憲改進党の誕生という形で実現(明治14年の政変で下野した大隈重信の「智嚢」「股肱」となり新党樹立の中心人物;支えたのは、高田早苗・市島謙吉など「鴎渡会」のメンバー)。「学問の独立」は東京専門学校(後の早稲田大学)の創立。「昼は蝗、夜は梟の棲家であった早稲田々圃には、立憲政治にあこがれ、自主独立を慕う青年論客があつまった」と言う。 肺結核のため、明治19(1886)年、神田の自宅で没。33歳10カ月(35歳か?)。 小野の死により、中断した東洋館書店は宿毛から出て東洋館で働いていた坂本嘉治馬が梓の妻の兄・小野義真から借用した200円を資金とし「冨山房」として再開・継承された。(しもたや風で看板が普通のように小さい冨山房を「とやまふさ」と読み、小野義真の妾宅であろうと噂したという) 小野記念講堂は、大隈重信銅像のたつ正面右手の7号館校舎のなかにある。大隈は小野の死を「身を犠牲にした殉教者」とたたえ、「両腕を取られたよりも悲しい」と嘆いたと言う。2000.12.28高新東京の中の土佐より 小野梓(1852〜1886)は、明治4(1871)年、米国留学して法学を研究。6年、大蔵省の官費留学生として渡英、銀行と理財材をを調査するかたわら、法学の研究を続けた。9年、「羅馬律要」を著して認められ司法省に勤務。 2006年:6月17日から小野梓公園で神前結婚式1組を募集<すくも青年会議所・宿毛市または大月町・三原村在住の方、衣装・ヘアメーク・記念写真代を会議所負担>問い合わせ:0880・63・3484 |
浜口庫之助 2007.4.17高知新聞 平成2年73歳で死亡 宿毛出身 人生いろいろ 黄色いさくらんぼ 夕日が泣いている 夜霧よ今夜も有難う 夕日が泣いている 空に太陽がある限り 花と小父さん バラが咲いた 恋の町札幌 涙くんさよなら
「黄色いさくらんぼ」昭和34年夏スリーキャッツの歌で発売 若い娘は<うっふん> お色気ありそで<ウッフン> なさそで<ウッフン>ほらほら黄色いさくらんぼーー軽妙なリズムで若い書生のお色気を歌った。この<ウッフン>”NHK”ではセクシーすぎるとということで放送禁止になった。・・僕は泣いちっち(S34)、粋な別れ・・
2002.8.8神奈川航空少年団の一行27人が高知空港を見学「野鳥が多い竜巻は・年に1〜2回」の説明をうけた、合宿のため5日に来高し最終日に空港見学したもの。
「半藤一利さんの21世紀への伝言」:いま、原文の手元に無く、記憶による;昭和20年、外国語のスポーツを止めよとの、通達で、止めようとなったところを、監督は、挑戦されて応ぜぬは不甲斐ないとして、神宮ダイアモンドで最後のベースボール。延長戦になり、応援合戦となり、敵味方無く、KO,Wasedaの校歌を歌ったという。