パレスチナ紛争の起源 背景となるパレスチナとユダヤ人の3千年の歴史 国際index頁へ     

BGM恋瀬川 作詞松井百合夫/作曲:叶弦大/唄 中村美津子 2008.1.1発売恋の雫は 心の雫 あなたとわたしを 結ぶ糸 行き着く先は 風まかせ ゆれて ゆられて ふたつの花は どこへ流れる 恋瀬川

日本国縄文文様例 より糸を紙粘土に転がしてつくる


以下 エルサレム共同=船津靖 高知新聞(年代不詳) 西岸は「約束の地」/19世紀末、衝突開始/憎しみ育てた欧州

ユダヤ教成立 紀元前10世紀、ダビデ王がえるされむを征服し、古代イスラエル王国が栄えた。「シバの女王」との交遊で知られるダビデの子ソロモン王が、現在のヒガシエルサレム旧市街のある丘の上に「神殿」を建設した。ソロモンの死後、王国は分裂。残ったユダ王国も紀元前6世紀に新バビロニア帝国に」征服された。神殿は破壊され、ユダヤ人の指導者はバビロン(現在のイラク)に連れ去られた。有名なバビロン捕囚」だ。
半世紀後、ユダヤ人はエルサレムに帰還、第2神殿を再建した。また、旧約聖書の編集が進み、紀元前5世紀までに唯市一神「ヤハウェ」を信仰し、安息日や割礼、エビやカニを食べない食事規定などの戒律えおもつユダヤ教が形を整えた。
ユダヤ人は神から選ばれた「選民」、エルサレム(シオン)は「聖地」、ヨルダン川西岸は神がユダヤ人に与えた「約束の地」とされた。パレスチナ和平交渉で。イスラエル政府がエルサレムの領有に固執し、シャロン首相らの右派政府が西岸のユダヤ人入植地の拡大にこだわる根拠はここにさかおぼる。
しかし、パレスチナ側にすれば「2千年以上前の話を持ち出し、ユダヤ人のパレスチナ帰還を正当化するなら、五十年前にイスラエル建国で故郷を追われたパレスチナ難民に帰還権があるのは当然」という主張になる。

イスラム化 1世紀後半、パレスチナを支配するローマ帝国にユダヤ人民権派が反乱をおこしたが、徹底的に弾圧され、第2神殿も炎上。ユダヤ人の故郷からの離散が決定的になった。
7世紀初め、ムハンマッド(マホメット)の興したイスラム教が爆発的に広がった。エルサレムもイスラム教徒の支配下に置かれ、ユダヤ教の神殿があった丘に「岩のドーム」と「アルアクア・モスク」が造られた。パレスチナは以後、十字軍時代の約100年を除き1517年に英国が占領(後に委任統治)するまで、イスラム教徒が支配した。
欧州やロシアに離散したユダヤ人は「キリストの殺害者」とされ、一緒に食事や労働がしづらい戒律も影響し、長く阿部つと迫害に苦しめられた。民族主義が高揚した19世紀末、ユダヤ人国家再興を目指す「政治的シオニズム」に火が付き、パレスチナへのユダヤ人入植が拡大。アラブ人との衝突が始まった。これが、今のパレスチナ紛争の直接の起源だ。

イスラエル建国
 アラブ人、ユダヤ人の双方に建国の希望を抱かせた大英帝国の「二枚舌外交」で、紛争は複雑化。独立を求めるユダヤ人が英国への武力闘争を展開した。第二次世界大戦後、ナチス・ドイツに約600万人が逆さうされた「ホロコースト」の全容が判明。此の衝撃も有り、国連は1947年、アラブ人とユダヤ人の二つの国を造り、エルサレムを国際管理下に置く「パレスチナ分割決議」を採択した。
アラブ側は拒否し、イスラエルは翌年、独立を宣言して戦争に突入。アラブは敗れ、パレスチナ人は難民となって逃れた。イスラエル建国は、あら日側からみると「欧州のユダヤ人差別のツケをどうして自分たちがはらわされるのか」という憤りになる。
イスラエルは67年の第3次中東戦争で、ヨルダン領の東エルサレムとヨルダン川西岸、エジプト領のガザ地区などを占領。右派政権リクードの「大イスラエル主義者」らによる西岸とガザ地区への入植地建設が始まった。
パレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長は「西岸とガザ地区に東エルサレムを首都とするパレスチナ独立国家」を樹立する」との目標を掲げ、イスラエルの占領地撤退っを要求。現在の紛争の基本構造が出来上がった。




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