2002.4.18大英博物館で日本画の修復担当のセラさん;和紙の研究に県紙産業技術センターなどを訪問
@土佐和紙の原料は梶・三椏・楮・雁皮。昭和30年代ごろまで、土佐郡土佐山村・幡多郡佐賀町拳ノ川・高岡郡越知町桐見川地区などの農家では、県内では最高の赤楮(あかそ)と呼ばれる楮(こうぞ)が生産されていた。
現在は「ユズ」「お茶」などの栽培に変わり、楮の姿を見ることが少なくなった。
A楮は桑科の落葉木で2〜3mぐらいの成木を毎年収穫します。全国の楮生産の過半数は高知県産で「土佐楮」と言われており、その品質も高く評価されています。1枚の障子紙には1.4〜1.5Kgの原木が必要だといわれています。
三椏は沈丁花科の落葉木で、苗を植えてから成木になり,刈り取るまでに3年もかかります。
3年ごとに収穫し、「局納みつまた」として大蔵省印刷局に納入され日本銀行券(紙幣)となって、日本全国に出回るのです。
楮・三椏を蒸す時期は、雨がふったりみぞれが降ったり大雪になったりする。
B吾北村寺野;つぼ(中庭)に置かれた楮の束(棚田のあぜ、日当たりの良い畑で栽培。枝を払い、4尺2寸(約125cm)の長さに「はみ切り」を使い切りそろえる。40〜60本ぐらいを束ね、蔓でしっかりと縛る。それの30束くらいをまとめロープで締め上げで番をまつ。明日は一家総出で楮の皮剥ぎ。(寺野 川村徳治さん)
急斜面の日当たりの良いところで育つ楮を「日照り楮(ひでり楮)」と言い、質も良いとの事です。南斜面で日当たりがよく排水の良い畑では楮の木の下で蒟蒻(こんにゃく)を栽培し、表土(うわつち)を防いでいます。
C野山で怪我をした足や手に,和紙の切れ端に蓬(よもぎ)をもんだ生汁を染み込ませ,傷の手当てをしてくれたこと、穴の開いた笊(ざる)や木箱に和紙を張って柿の渋を塗って修繕していた祖母のことなど、いろいろのことを思い出します。D野山や田畑で汗をかきながら駆けずり回って遊んでいる子どもの姿がありません。これは過疎化ダケデハナク、テレビゲームや進学塾に通わねばならないことも原因だと思います。(33)「水より」と「空より」原木のときに擦れ合ってできた傷や、原料を作る過程でどうしてもほこりやスナが混じる〜これらの塵(ちり)を除く作業は根気が要る(純白の繊維にするために何回も繰り返す)。原料を水に入れ、少しずつ広げながら取り除く「水より」。原料に含まれた水を絞り、濡れた状態で広げながら取り除くことを「空より」という。こうして、美しい原料になった繊維は「ねり」と混ぜ合わせて漉き舟に入れられる
炭酸カルシウム、炭酸マグネシウム、鉄分を含まない大量の水がいる。紙床に重ねてもそれぞれが単独の繊維の絡み合いだから、剥がせる。紙床のまま圧搾機にかけて水切りし干し板に張って天日に干す。(天気の悪い日には大きい冷蔵庫に入れて、晴天を待つ。
1日に300〜500枚を漉く。漉きだちでまだ湿っている紙が重なっているのに、1枚ずつ綺麗にはがれるのは「ねり」が大きな役割をしているから。
狩山紙は吾川郡池川町。
以上は、@AB〜。土佐和紙の里{和田徳恵、高新聞より)
和紙国際化実行委員会 2002年3月〜4月第5回高知国際版画トリエンナーレ展(応募受付2001年10月1日〜31日、大賞<副賞100万円・準大賞<同50万円>、土佐和紙賞<同30万円と10万円分の土佐和紙>
土佐七色紙の創始 ; 慶長の頃、吾川郡成山村で安芸三郎左衛門家友と養甫尼と共に、伊予の旅人新之丞(彦兵衛)から朱善寺紙の製法を学び、七色紙を考案したといわれている。だが、家友は七色紙の製法が藩外にもれることを恐れ、新之丞を仏が峠で斬り殺してしまったという哀話が残されている。
もちろん、七色紙が考案される以前にも土佐紙は生産されていた。「長宗我部検帳」によれば、高岡郡梼原町には22筆の紙漉地、幡多郡下山郷江川に紙屋敷、楮の記載は各所にわたるそうである。
トコロアオイ(花や草の形は野菜のオクラに似る・ゴボーの丈が低く朝鮮人参のような根が多く付いている)の根から「和紙を漉(す)時ののり」を作る。(洗って傷をつけると1年間保存が出来ないので、洗わずに土ごと漬ける)、契約栽培(予約はすべて買い上げ)。「のり」といわれる「ねり」は紙を漉くとき、繊維と繊維を接着するものではなく、「ねり」の役目は水中で繊維の分散を助けるためのもので、接着力はない。トコロアオイの根を水に漬けると、粘りのある液がたくさん出てきて、この液を袋でろ過してほこりを取り、漉き槽にいれて原料と一緒に拡販する。「ねり」のヌルヌルが繊維を包んで、繊維は互いに絡み合うことなく水中に分散し、簡単に沈まずに兆時間水中に浮いている。
紙に関する話題 仁淀川・紙の鯉幟 ・ フラフ はこの下の方を参照
○「金の活字賞」(2002.3.22ドイツ書籍美術財団)世界31カ国出版のなかから、”世界で最も美しい本”「和紙ー日本の紙の伝統と文化(2巻計178頁グラフィックデザイナー高木毬子さん)2002.3.24高新
○ウィーンのハウス・ヴィトゲンシュタインで北古味可葉さん「土佐和紙のあかり展」2000.5(春野町よくばり子リス松田さん、飛鳥出版室かわら版
第103号)
○ドイツ、ハノーバー万博(2000年6月)「新しい世界の創造ー人間・自然・技術」史上最多の190カ国。「できるだけ再利用可能な材料を使う」との条件で、日本は再生紙を建材に、高さ約15mの”世界最大の紙製建造物の館内で、05年の愛知万博や地球温暖化防止に向けた日本の取り組みを紹介。
○高知市永国寺町「子どもの図書館」へ紙の「翼竜」を「ペーパーワークス2000いの」実行委員会寄贈。天井につるされている、2,5m。
○キューバの種首都ハバナ「ガレリア・ロス・オフィシオス」で「土佐和紙展」:24人、高知市星ケ岡アートヴィレッヂ・伊野町鹿敷製紙・県手すき和紙共同組合・紙の博物館、2000.11.18〜12.9
高知県香美郡香北町の大宮小・猪野々小・谷相小の6年生、ケナフを紙にすき、自分達の手で卒業証書を作った。2001.2.2高新
高知市、金星製紙 2002.2よりデンマークの不織布製造機・スエーデン製の破砕機など欧州製のリサイクル関係技術を持つメーカーから導入し本格稼動する。
土佐清帳紙 ; 天日に干し乾燥させ作る。吾川郡吾川村岩戸。大福帳や選挙の投票用紙、書道・版画ちぎり絵など美術・工芸用など。昭和53年「現代の名工(労働大臣)の称号。0889−35−0625
檀紙だんし 軟水がなじみやすく、伝統的な厚手で白い縮緬のような皺がある高級紙 奉書紙 愛媛県東予市国安町マルショウ製紙所」;西条市;08898−66−1122
揉み紙 和紙に顔料を下塗りして乾かし、その上に別の顔料を上がけして何日か乾かす。それを両手で繰り返し丁寧に揉んでいくと、上地の顔料が落ちて下地が現れ,模様を形作る。そのあと、広げて糊で裏打ちして仕上げる。「下塗りと上がけの色のバランス、揉みの強さと弱さによって、無限に広がっていく。どんな模様がでてくるか、それがすごく楽しい〜高知市井口町の横山沙知さん」2002.1.21高新
まるみ和紙;幡多群大方町;0880−43−0065。泉貨紙せんかし;西西条市野村町;0894−72−0322
土佐和紙工芸村に、養蚕→染め→織物まで一連の工程を体験できる、染め織作家の山本さん運営(2002.8.3高新)
「仁淀川紙のこいのぼり」 紙の伊野町特産の不織布で長さ10m〜1.5mのこいのぼりが仁淀川中に200匹前後群れる(うろこや色付けに地元だけでなく信濃川流域の子どもたちも参加しているという)
「和紙の里空にも川にも鯉幟」2001.5.5高新ひろば 小野山征男さん;端午の午は、動物では馬、方角では南、月では5月、端午の節句とは5月の端(はじめ)の節句。お隣の中国では、5月5日生まれの子は親不孝をすると言う迷信がある。ショウブを軒にさして厄払いをする風習は子どもを思う親の知恵から生まれた、そして5月5日をお祝いの日にしてしまった。さらに、「66(りくりく)変じて、99鱗(くくりん)となる」の俚諺伝説(36枚の鱗を持つ鯉が、81枚の鱗を持つ龍にとなる)を空に(川に)泳がせて、子どもの未来を祝福したのである。「いつの世も、生き抜け強くと、鯉幟」
操業を実力阻止した1971年6月・・現在はショッピングセンター・・浄化祈念碑の写真など → http://www.h2.dion.ne.jp/~seimon/tabi6.htm・・同HPには、有害排水を垂れ流しにしたパルプ工場に対して、怒った地元の住民が・・この地はパルプ工場の立地には向いていない・・・とありあます。
http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanka/2009/05/post-ca4b.html・・1944年から45年にかけて、アメリカ空爆用自動飛行体・風船爆弾が作られていました高知でも風船部分が作られていました・・・短歌の花だより(さぬき市、高知市・藤原義一さんのHP)・・土佐高女・第一高女・高坂高女などに作業が課せられ・・後には市内旭町に工場が出来て、そこに通勤した。・・・。・・
昭和19年・・7月には高知市旭町三丁目九四番地(現西日本パルプ敷地)に科学加工紙株式会社を設立するとともにバルーンの満球試験工場を建設して所謂風船爆弾の製造に着手した。・・。・・手漉き業者は当時約800戸もあったが十八年九月ごろから、すべてコウゾを原料とした気球用の生紙(きがみ)すきを命ぜられた。・・・・すきあがった紙は高知市旭町三丁目の国産工場(旧高知パルプ敷地)や第一高女(丸の内高校)土佐高女(土佐女子高)グラウンドなどで張り合わせて(原文ママ)原紙をつくった・・。風船の直径は十メートル、重さ七十五−八十キロ。ラッカーで迷彩し、月に十〜十五個ずつと東京へ送られた。水素ガスでふくらませた風船に親指大のロープで五キロの焼夷弾四個と十五キロの爆弾がつるされた。アメリカに到着する時間を計算して自動爆破する装置をつけた。別に重さ二キロの砂袋を三十二個ぶらさげた。どうしても水素ガスはすこしずつ風船の表面から逃げるので、途中で一定以上に高度が下がった場合、自動的に砂袋を落として風船が偏西風帯に戻る工夫もした。・・・・。
高知工科大学の島本哲也様の「土佐和紙産業技術と歴史的背景」p8・平安時代に紙を作る国として土佐の名前がでている・・・幕藩体制の確立と紙の需要増大を背景として本格的に土佐和紙として定着・・祖とされる安芸三郎左衛門家友は伊予の旅人の協力を得て七色紙考案し、山内一豊に献上・・黄(やまももの皮、ヒラサキの葉)・浅黄紙(藍)・桃色紙(弁柄)・柿色紙(やまももの皮、蘇芳、明礬は色止)・紫色紙(楊梅皮、明礬)=それぞれ原料はがんぴ。紫色紙はこうぞ、がんぴ。朱善寺紙(原料不明、青土佐紙か)・・・。近代・・伊野町の吉井源太の連漉器の発明などにより技術面(明治13年土佐展具帳紙はアメリカのタイプライター用に輸出)販売面が大きく伸びた。・・、明治19年・伊野精紙会社設立・西洋製紙技術。明治21年吉井源太「日本製紙論」著す。明治37年土佐紙合資会社設立、明治43年に土佐紙株式会社となった。・・・。
同P15・(大正、昭和初期)第一次大戦後不況で副業的手漉き業は壊滅、器械製糸の強化拡大・・。戦後好況で土佐紙業株式会社は・・大正10年には23工場経営・・しかし、大正15年安田財閥系の日本紙業株式会社に吸収され伊野支店となった。
・・前掲書P16(昭和中期から後期)昭和16年ニッポン高度紙工業創設、昭和26年金星製紙創業・・昭和40年1月土佐紙株式会社倒産・・昭和51年土佐和紙がわが国の伝統的工芸品に指定される。
・・同P23戦前の日本紙業株式会社高知工場・・昭和6年12月・・器械に比べ労銀の点から不利な手漉き部を廃止・旭工場の2号機を伊野工場に移設・所有は抄紙機は計4台。昭和19年、風船爆弾用の紙を行ったが10ヶ月で中止。
・・同P23(7)戦後の日本紙業株式会社高知工場(昭和36年9月1日に旧伊野工場の名称を変更したもの)
・・同P28ニッポン高度紙の歴史・・1941年8月・・高知市南元町85番地・・高知工業の卒業生数名が創業・・手漉紙にビスコースを含浸加工し耐水性の優れた紙を開発「高度紙」と名づけ、主に薬剤煎出袋として販売を開始。1943年4月電解コンデンサ紙の生産開始。・・1968年8月吾川郡春野町寛岡上648番地に春野工場を建設。・・マンガン乾電池用紙・・おむつ濡れンサー発売開始翌月不織布製造設備設置・・1992年安芸工場・・
http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/handle/10129/911 弘前大学の四宮俊之様「戦後日本の紙・パルプ産業での大企業と中小企業の競争と併存に関する経営史的考察(下)・・<註・このアイテムをPDF「見る/開く」で読めます>。
・・61Pに目次【4】(5)高知県での紙・パルプ産業の伊野町を中心とした集積。
・・82P〜84Pが本文で・・明治時代に緒方の簀桁(スゲタ)が考案され農村手工業として・・第2次大戦後と思われるが・・新たに器械漉き和紙業に進出してくる者が相次いだ。・・伊野町における100〜199人規模の工場は日本紙業(1925年に日本紙器と土佐紙(株)の合併で設立され、1997年に十條板紙となる)の高知工場で・・・。また、それらの他に200〜299人規模の県内最大工場として、伊野町や土佐市と隣接する春野町にニッポン高度紙工業があった。同社は、1941年に手漉き和紙から加工紙の製造をはじめ、2000年において・・電気絶縁紙などを製造していた・・・。
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